榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−海外向け-中編
図1. ロシア帝国の東進する南侵
(黄色の枠で囲まれた地域がグレートゲームの盤面)
榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−海外向け-中編
・興亜会
【興亜会設立へ至る道】
参照 http://www.johoyatai. com/3565
-グレートゲームの始まり
ピョートル大帝(1672-1725)の時代から、ロシア帝国は陸上では国境の向こうに欲しいものがあり、チャンス到来と判断すれば、大挙して国境を越えて略奪に向かいました。ロシア帝国にとって国境とは、領有者の抵抗が強く、そこから先へ進軍(侵略)できないので作った防衛ラインを意味しました。かつてロシア人は毛皮や地下資源など大地に依存した生活をしていたので、あらたな毛皮や地下資源を求めて領土拡張を必要としていました。海上では、貿易港は白海のアルハンゲリスク港を有するのみで、アルハンゲリスク港は不凍港では無いため、不凍港を求めて1695年に実行された『オスマン帝国が支配するドン河河口の要塞アゾフを落とすこと』*が、ロシアの南侵の始まりでした。翌年の1696年にアゾフ要塞の攻略に成功しました。
*土肥恒之『(興亡の世界史 第14巻) ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007、pp. 104-105
アゾフ要塞攻略は『「新しいアルハンゲリスク」とする意図があったというが、この計画は間もなく捨てられる』
サンクトペテルブルク建設によりバルト海貿易ルートを確保し、サンクトペテルブルク港を用いた貿易開始を示している。
ピョートル大帝に続き、エカチェリーナ二世(1762-1796)も領土拡張に取組み、1768年の第一次露土戦争を起こし、南侵を継続しました。1801年初、ロシアの皇帝パーヴェル一世 (在位、1796‐1801)は、亡き母のエカチェリーナ二世が10年前に立てたインド侵略案を実行しました。1月8日にはカルトリ・カヘティ王国(現、東ジョージア)の併合を宣言しました。続いて、1月24日に、地理情報ではオクサス河(現在のアム・ダリア)までしかなく、その先は指揮官の責任で地図を入手することにして、2,200人のコサック兵にインド*に向けて侵攻命令を出しました。更に、インドへ向かう途中、ヒヴァやブハラで奴隷として捕えられているロシア人を解放し、軍に編入し、反英的な部族と戦わず親露に引きずり込みながら進軍するよう命じました。パーヴェル一世が暗殺され、次の皇帝、アレクサンドル一世はインドに向けて行軍中の軍に帰還を命令しました。
グレートゲームは実質的に1801年に始まりました。
アレクサンドル一世(在位、1801-1825)は、その年、1801年9月12日、ロシア軍をコーカサスに侵入させ、カルトリ・カヘティ王国(現、東ジョージア)の併合を実行し、トビリシにカフカス(コーカサス)総督府を設置しました。ロシア軍はさらにペルシャ領のアルメニアに侵入し、首都を包囲しました。1804年にペルシャはアルメニア奪還に向け出兵しましたが、劣勢でした。
ペルシャは、外交関係を結んだはずの英国から援助が来ないので英国と断絶しました。1807年7月の仏露インド侵攻密約(ティルジット条約)が英国秘密情報部員(secret service)からロンドンへ伝えられました。密約とは、仏露でトルコを攻略し、フランスと同盟関係にあるペルシャを通路にしてインドへ侵攻することでした。英国政府と東インド会社は震撼し、英国はペルシャとの信頼関係回復に動くことにしました。一方、同年12月、フランス軍事顧問団がペルシャに到着しました。
ペルシャ国王も仏露の密約を知り、1809年、仕事をしないフランス軍事顧問団を退去させ、英国との関係を修復し、1810年に英国軍事顧問団をテヘランに入れました。その中に若い情報将校が多数混じっていました。彼らに与えられた密命は、英国にとって無知である、ペルシャ、アフガン及びアジア内陸部の情報を収集し、ロシアのインド侵攻(南侵)を阻止する戦略活動をすることでした。英国の若い情報将校は、命がけの探査行とインド防衛のための戦略活動を始めました。一方、ロシア人を躊躇なく拉致し、三千人を超えるといわれるロシア人を奴隷にし、人身売買をしている中央アジアで、ロシア軍の若き士官たちは、奴隷にされるかもしれないという恐怖の中、インドへ至る道を探し始めました。
ロシア帝国は、英国の三角貿易の第一角であるインドへ侵攻するため中央アジアを南侵し、英国はロシアに対抗し、ロシア軍がインドへ到達しないよう中央アジアで戦略的活動を繰り広げました。西はコーカサスから東はチベットまでをチェスの盤面のようにとらえ、広大な盤面上でロシアはインドを奪うため、英国はインドを守るため、英露双方の若き士官たちの壮絶な戦い -The Great Game- は、1810年に顕在化し、1907年に英露間でペルシャ、アフガン、チベットでの勢力範囲を取り決めた英露協商を結ぶまで続けられました。
1840年7月、33歳のインド駐在のコノリー大尉(Arthur Conolly、1807‐1842、16歳のときラグビー校から英国陸軍へ)は、アフガニスタンの都市、カンダハールに着任した新任の政治代理⼈(The new political officer)、ローリンソン少佐に中央アジアから、You’ve a great game, a noble game, before you.(あなたの目の前には、素晴らしいゲーム、⾼貴なゲームがある)と手紙に書きました。これが、この英露のインドを巡る中央アジアでのゲームで、この用語が使われた最初であると言われています。コノリー大尉は作戦行動中、ブハラで捉えられ、先に捉えられていた仲間と共にアーク要塞の前の広場で公開処刑されました。35歳でした。The Great Game の一駒である若き士官たちには過酷な運命が待っていました。
*『1757年のプラッシーの戦いに勝ったイギリス東インド会社はベンガル州を会社領とし,それ以後各地を征服,19世紀なかばには全インドを支配下においた。この間の激しい収奪ときびしい弾圧に対するインド人の反感は 1857~59年のインド大反乱となって爆発。 58年イギリス政府は東インド会社を廃止して直接統治下におき,77年イギリス国王がインド皇帝を兼ね,インド帝国と称した。』イギリス政府が直接統治した時代 (1858~1947) の植民地インドは英領インドと呼ばれた。(コトバンクから引用)』
引用文献
1.ピーター・ホップカーク著、京谷公雄訳『ザ・グレート・ゲーム 内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦』
中央公論社、1992
2.Hopkirk, Peter. ‘The Great Game: On Secret Service in High Asia’ John Murray Press. Kindle 版, 1901
3.『榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-1-A)』情報屋台、http://www.johoyatai.com/3565
-グレートゲームの盤面は中央アジアから極東へ
1799年にロシアの皇帝から勅許を受けた露米会社(アラスカを支配)は事業不振と食糧不足から日本との貿易を必要とし、1804年、長崎で日本へ交易を要求しました。徳川幕府から交易を拒絶されると日本の北方で軍事的報復をしました。この事件は米露会社自身の経営不振が原因で、グレートゲームが原因ではなかったのです。
*参照 『榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−海外向け-(上)』http://www.johoyatai.com/6176
ロシアは東進に加え、グレートゲームの盤面である中央アジアへの南侵も進め、『ロシアはカザーフ汗国(ロシアと中国の双方へ二重朝貢していた)を1850年代に完全に併合した。・・・ さらに、1860年代から70年代にかけてロシアの勢力は中央アジアを南下し、コーカンド、ボハラ[ブハラ]、キーバ[ヒバ]の三汗国を征服』した。
(坂野正高『近代中国政治外交史』東京大学出版会、1973、pp.325-331 )
ロシアとオスマン帝国・イギリス・フランス・サルデーニャ王国連合との間で、1853年から56年にかけて戦われた「クリミア戦争」のとき、戦闘は北太平洋にまで拡大し、1854年夏、英仏連合艦隊はカムチャッカ半島のペテロパブフスクの基地を包囲攻撃し、また、日本海や北太平洋の海域でロシア及び露米会社の艦船を捜索し、掃討しようとしました。
1853年7月、米国のペリー提督はヨーロッパ列強がクリミア戦争を戦っている間隙をぬって、艦隊を率いて日本の江戸湾に侵入し砲艦外交により開国を迫りました。ロシア帝国のプチャーチンはペリーが日本へ向けて出港したことを知り、プチャーチンもペリーを追いかけるように日本へ向けて出港し、1853年8月、長崎に来航し、国書を長崎奉行に渡しました。また、後に英仏とロシアが開戦したことを知りました。
1854年、榎本は箱館奉行堀織部正に従って、蝦夷(北海道)、北蝦夷(樺太)を巡視し、樺太の北緯51度線付近で日露の国境画定の議論をするため、プチャーチン提督の到着を待ちましたが、プチャーチンの軍艦は英国艦隊を避け、自由港へ退避していたため、プチャーチンは現れなかったのでした。榎本とグレートゲームとの関わりはここから始まりました。英国は、同年9月、北方の海上で活動する英国艦船が日本で薪水、食料を調達するため日英和親条約を締結しました。
プチャーチン提督は、常に英仏連合艦隊の動向を注視しつつ、英仏の軍艦に遭遇しないよう逃げ回りながら徳川幕府と交渉を続け、1855年2月、日露和親条約を締結しました。3月にプチャーチンらが乗船した戸田号は、一路、カムチャツカ半島のペテロパブフスクの基地へ向け出帆しましたが、再び英仏連合艦隊が、ペテロパブフスクの軍港に迫っていることにプチャーチンたちは気づきました。帆をたたみ、オールを漕いで敵に見つからないように港に入りました。軍と住民、船員たちは既に、アムール河口の哨所、ニコラエフスクへ撤収したことを知り、再び、英仏連合艦隊に見つからないように、こっそり出港し、ニコラエフスクへ向かいました。
1855年4月、クリミア戦争の関連と考えられる仏軍の負傷兵約二百名を乗せた仏軍艦が箱館港に入港するなど、日本の周辺海域も騒然としていました。ロシアが極東およびアラスカを支配していたため、クリミア戦争をきっかけにグレートゲームの盤面は北太平洋へ飛び火、拡大したのです。
* 参照 企業家 榎本武揚の民間事業(1) | 情報屋台 (johoyatai.com)
1860年代、中央アジアでは清国による支配やロシアの南侵に対し、イスラム教徒が反乱を起こし、其の結果、伊犂地方を経由した露清の貿易は妨げられ、伊犁問題と呼ばれました。以下は、坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、1973、pp.325-326)からの引用です。
『ロシアはカザーフ汗国(ロシアと中国の双方へ二重朝貢していた)を一八五〇年代に完全に併合した。その結果、中国と内陸アジアの西方において直接に接触するようになり、一八五一年に伊犁条約(クルジア条約) *を締結した。・・・両国間の陸路貿易に関する規定が定められた。さらに、一八六〇年代から七〇年代にかけてロシアの勢力は中央アジアを南下し、コーカンド、ボハラ、キーバの三汗国を征服した。
一八六二年から一八七三年にかけて陝西省および甘粛省に回乱[イスラム教徒の反乱]が起こった。・・・コーカンドの豪族ヤクブ・ベグ (Yakoob Beg) (阿古柏) (一八二〇頃―一八七七)は一八六四年にカシュガル地方に侵入し、天山南路に一八六六年までに一大国家を建設した。インドから伸びてきた英国の勢力がこれに接近した。これと相前後して天山北路に回教徒の大反乱が起こり、一八六六年にアブル・オグラン (Abul Oghlan) が伊犂に政権を樹立して、ロシアの貿易勢力を圧迫し、伊犂条約[1851年締結の露清通商条約]に対し不承認の態度をとった。一八六九年、ヤクブ・ベグは天山山脈をこえて天山北路に侵入した。この動きの背後には英国側の煽動があったといわれる。
一八七一年にロシアは軍隊を出動させて伊犂を占領し、オグランは降伏した。ロシア当局は、中国政府に対して、清朝が伊犂地方の秩序を維持できるようになれば同地方から撤退するという趣旨の声明を行なった。翌七二年には、ロシアが、七三年には英国が、それぞれヤクブ・ベグと通商条約を結んだ。かくてヤクブ・ベグは中央アジアにおける緩衝国としてその存在を国際的に承認されたといえる。』
1875年、英国近衛騎兵連隊フレデリック・ギュスター・バーナビー大尉は、1873年にロシアの保護国となったヒヴァへの個人旅行の許可をロシア陸相から得ました。バーナビー大尉は途中でロシア側の妨害を受けましたが、妨害をすり抜け、ヒヴァにたどり着き、ヒヴァから引き揚げたことになっているロシア軍が、いつでもヒヴァを攻撃できる位置に要塞を築き、4千名の兵士を駐屯させている事実を掴みました。バーナビー大尉は、ロシアはまたも嘘をついていたと実感しました。
(『榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-1-B)』http://www.johoyatai.com/3573)
1868年、旧幕に引き続き、明治新政府とロシアと領土問題が決着していない樺太と本州の間、蝦夷嶋(北海道)に榎本ら徳川脱走軍は割って入り、榎本は蝦夷嶋(箱館)新政府を樹立しましたが、翌年、明治新政府軍に降伏するという短期政権で終わりました。1872(明治5)年暮れにポシェット(1819‐1899、当時はロシアの皇子、アレキシス・アレクサンドロヴィッチの教育係)は、日本から帰国途中、松平太郎から函館で榎本の考えをヒアリングし、12月5日にウラジヴォストークに到着しました。翌1873(明治6)年2月、ロシアの駐日代理公使は停滞していた副島外務卿との領土交渉を一気に動かそうと、日本の東洋に於ける役割という大きな視点から副島に交渉を迫りました。その翌年1874(明治7)年、榎本の駐露公使派遣と台湾出兵がセットで動き出しました。
図2. 伊犂事件と満州の盤面
注:「塞防論vs.海防論」
清朝は1874-5年の日本の台湾出兵の衝撃を受け、政府部内で1874年から1875年にかけ、内陸アジア防衛優先の「塞防論」(さいぼう)と日本を仮想敵国とした海上防衛優先の「海防論」とに分かれ、財源の優先順位と戦略論の論争が行われた。坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、1973、p.32
1871年のロシアの伊犂侵略後、1877-78年の露土戦争でロシアの勝利、1878-80年にアフガンでの英露勢力圏の衝突と立て続けにロシアの英領インドへ向けた南侵は続きました。 1879年(明治12年)初に、ロシア軍の伊犂地方からの撤退に関し露清間で交渉が始まり、10月、リヴァディア条約が妥結しました。しかし、北京ではリヴァディア条約への不満が沸騰し、1880年(明治13年)2月に再交渉が決まりました。条約交渉を担当した清国側の外交官は責任を問われ、3月に死刑宣告が出ましたが、ロシアへ配慮する英国の介入により死刑を免れることができました。リヴァディア条約締結が不調になったため、露は係争地点の伊犂に、清は付近(新疆)に双方とも大軍を送り、ロシア太平洋艦隊はシナ海・渤海湾に出動し、清国は威海衛と大連湾に軍港を築き、旅順に砲台を築き、露清ともに戦争準備の示威行動*をとりました。
*坂野正高『近代中国政治外交史』東京大学出版会、1973、pp.329-330
参照『榎本武揚と国利民福-最終編二章-2 北太平洋のグレート・ゲーム』http://www.johoyatai.com/4475
-日本の反応
1871年のロシアの清国領・伊犂地方占領、1877.4-78.3年の露土戦争でロシアの勝利、1878.11-80.7年にアフガンでの英露勢力圏の衝突(第二次アフガン戦争)と立て続けにロシアの南侵は続きました。明治新政府は1879(明治12)年3月に琉球処分を実行しました。清国直隷総督李鴻章は華夷秩序維持のため日本と戦争をしてでも琉球処分を阻止する意向でしたが、ロシアとの伊犂問題で係争中のため、日本と戦う余力は無く、5月31日に天津に立ち寄った世界周遊旅行中の前アメリカ大統領グラント*に琉球問題に関し、日清間の調停を依頼しました。グラントは8月10日に天皇に謁見し、日清で琉球を分割統治する調停案を提出し、日清紛争はヨーロッパ列強にさらにアジアでの利権に漁夫の利を与えかねないので、日清は譲歩し親交を深めるよう勧告しました。グラントの忠告通り、日清紛争は明治27,8年の日清戦争を引き起こし、日本勝利の後は、清国の利権は列強に分割統治される状況になり、さらに明治33年にロシアは黒龍江を越え大連まで南侵する事態になりました。
*Ulysses Simpson Grant、1822~1885。南北戦争末期、北軍総司令官に就任、戦争を勝利に導いた。その後、第18代大統領(在任1869~1877)。共和党。グラントの調停は成功せず、琉球処分に対し、日清対立は継続した。(コトバンク)
同年10月に露清間で伊犂事件に関し、前出のリヴァディア条約、妥結の報が日本に届くと、「露清攻守同盟」(軍事同盟)ではないかという憶測とロシアの日本周辺への南侵開始への警戒心、危惧が国内に生じました。もし、「露清攻守同盟」により朝鮮半島がロシアの支配下に入れば、日本の安全保障が危うくなるという連想へ繋がり、日清友好、日清同盟、アジア諸国提携により、日本や地域の安全保障の強化といった発想が膨らみました。
1860年頃、徳川幕府時代の勝海舟は、西洋諸国の侵略に対抗する日清韓同盟(三国合従連衡)*を提案しました。海上は日本、陸上は清韓が分担して西洋に対抗し、また、ロシアの南侵からも三国で守る戦略でした。神戸操練所(1864-1865)はその目的のために設立されました。その約20年後に、世間はようやく日清韓同盟の必要性を実感し始めました。
*勝海舟/江藤淳・松浦玲編『氷川清和』講談社学術文庫1463、2000、p.223、pp.269-270
翌明治13年3月になり、リヴァディア条約は「露清攻守同盟」ではないことがはっきり論じられるようになり、アジア中央部、伊犂地方での英露のグレートゲームの沈静化によりロシアの南侵は、日本の台湾出兵や琉球支配をめぐり日清間で緊張が高まった状況下で、アジア諸国の提携の中軸としての日清提携の理念や緊急性が強く意識され始めました。 (朝野新聞の論調)
参考 黒木彬文『興亜会の成立』政治研究(通号30)1983.3、pp.87-93
明治12年11月に外務大輔に就任した榎本は、明治13年2月28日、海軍卿を拝命しました。同年4月、榎本がサンクトペテルブルクでペルシャ国王と総理大臣と約束した使節団(吉田使節団*)が、海軍の訓練航海に向かう最新鋭艦比叡でペルシャに向かい、9月27日にペルシャ国王に謁見しました。『[ペルシャ国王の]国書には、両国はお互いに「亜細亜州」の国として、その心情は一致すると述べられていました。』*
*外務省『特別展示「日本とペルシャ・イラン」 | 明治政府とペルシャ 吉田使節団派遣 概説と主な展示史料』
https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_000037.html
榎本が駐露公使時代の部下、西徳二郎は、翌明治14年4月28日に中央アジアの参謀旅行を経て帰国しました。榎本の口添えもあり外務省から許可を得て、同年7月20日にサンクトペテルブルクを出発し、ロシアの中央アジアの南侵地域を重点的に観察しました。特に、露清で交渉が紛糾している天山北路の伊犂地方の視察報告は重要な現地情報になりました。帰国して、太政官権大書記官に任命され、参謀本部御用掛になりました。
榎本が踏破した大陸のロシア国境地帯、西が探索した中央アジア−モンゴル、吉田が訪問したペルシャの調査は、ロシア帝国のグレートゲームが展開されている地域、ゲーム遂行のための策源地、今後の侵略が予想される地域への一次調査(明治11年~14年)でした。明治8年に西がもたらした、ロシアは元山港をロシアの軍港にしようとしているという情報に対し、榎本は素早く反応し、花房らの努力で明治13年5月、元山港はロシアの手に落ちることなく、無事開港されました。
英国の三角貿易の第二角、清国と極東ロシアとの間、満州にグレートゲームの第二の盤面が置かれないうちに、榎本はロシアの南侵に対する安全保障のための準備を進めていたのでした。
補足:明治12年9月24日、西徳二郎は、サンクトペテルブルクからの帰国順路を中央アジア(天山北路)、西比利亜、蒙古、支那を観察して日本に到着することを外務省に願い出て、榎本に助言を乞うた。明治13年7月5日に後任の柳原前光駐露公使がサンクトペテルブルクに着任し、西は公使への引き継ぎを終えると、20日にサンクトペテルブルクを出発した。サンクトペテルブルク−オレンブルク間は汽車、馬でカザフスタンのカザリンスク、シルダリア川沿いの街道を南下し、タシケント(10日間滞在)、サマルカンド(数日間)、カルシ経由でブハラ(9月14日着、ブハラ・ハンは1866年にロシアに敗戦)、国王に謁見、22日発、サマルカンド経由でタシケントへ戻った。天山北路(アウリエ城など経由)に入り、11月2日伊犂に到着。伊犂は1871年ロシア軍に占領された。トルキスタン総督府初代総督、カウフマンが実行した。11月25日出発、西比利亜、蒙古、清国を旅行し、翌明治14年4月28日に東京に帰った。
*参照 榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−海外向け-(上) | 情報屋台 (johoyatai.com)
榎本3-安全保障-後編-3-2-2-B | 情報屋台 (johoyatai.com)
【興亜会の設立】
さて、グレートゲームが中央アジアに置いた盤面は第一の盤面であり、遅かれ早かれ、ロシアは中央アジアと東シベリア、極東と関連付けて行動を起こすと、日本国内では考えている人々がいました。榎本のような外交分野、陸海軍関係者、ジャーナリスト達でした。ロシアの南侵によるグレートゲームに対し、文明開化運動から始まり、脱亜入欧を選択するグループと日清韓の三国提携論を核にアジア諸国の交流から連帯を選択するグループに分かれました。これから紹介する「興亜会」は国内初のアジア主義団体と呼ばれ、アジア諸国の提携による独立と平和、繁栄を目指した団体です。
(黒木彬文『興亜会のアジア主義と植木枝盛のアジア主義』福岡国際大学紀要 No.9 2003 p.67)
図3. 興亜会創立会員のリスト
黒木彬文・鱒澤彰夫『興亜会報告・亜細亜協会報告』では「興亜会」を次のように論じました。
『興亜会は、欧米列強のアジア侵略に抗してアジア(主として清国と朝鮮)の振起と興隆をめざし、アジア諸国の連帯を求めて、 アジア事情の 収集と言語の習得を目的として、明治一三(一八八〇)年二月に東京に成立した。当時は世をあげての欧化主義であり、その社会風潮のなかに あって、アジアに目を向け、野蛮、未開と軽視、蔑視される清国、朝鮮 を中心とするアジア諸国との連携をうたう団体は、特異な存在でもあっ た。一六(一八八三)年一月には会名を亜細亜協会と改め、やがて三三 (一九〇〇)年三月に東亜同文会(明治三一年一一月設立)に吸収合併され た。』
(出典 黒木彬文・鱒澤彰夫編集解説『興亜会報告・亜細亜協会報告』不二出版、1993、p.3)
明治7年11月、天津での大久保利通と李鴻章との話し合いをきっかけに、明治10年12月に着任した初代清国駐日公使何如璋*¹と大久保は日清間の交誼を親密にするため、語学学校と交流を推進する「振亜会」を企画しましたが、明治11年5月に大久保が暗殺されたため頓挫しました。一方、海軍情報将校の曽根俊虎*²は、アジア諸国の独立回復と発展のために活動する「振亜社」を明治10年に設立しました。大久保と何如璋の「振亜会」と曽根の「振亜社」の両者は、宮島誠一郎*³や渡邉洪基らにまとめ上げられ、明治13年2月13日、会名を「興亜会」とし、創立準備委員会が開催され、「興亜会支那語(中国語)学校」は、2月16日に先行して開校し、3月10日に「興亜会」(会長、長岡護美*⁴)の創立総会が開催されました。榎本は同3月28日に海軍卿に就任し、サンクト・ペテルブルグでのペルシャ国王と総理大臣との話に基づき、最新の軍艦に吉田使節団を乗せ、4月5日にペルシャに向け送り出しました。吉田正春は、明治14年8月2日、興亜会で帰朝演説をしました。演説の中で吉田はペルシャ、トルコで興亜会入会を勧め、ペルシャでは近衛総督府その他の人々24名が、トルコでは外務大臣、近衛総督府の人々18名が加入したと報告しました。
*¹か・じょしょう、1838-1891、広東省出身、進士(科挙合格者、コトバンク)
出典 佀紅娜『清国初代駐日公使館員と日本女性』岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第38号 (2014.11)
*²そね・としとら、1847-1910。米沢藩出身。海軍軍人。清国を舞台にした代表的な情報将校。アジア主義の草分け。
*³みやじま・せいいちろう、1838-1911、米沢藩士。『明治元年戊辰の役に奥羽諸藩の対官軍戦争防止に奔走。明治3年から明治新政府の役人。29年勅選貴院議員。晩年は中国問題に力を入れた。』(コトバンク)
黒木彬文『興亜会の成立』*によると、興亜会設立直後の明治13年3月13日に宮島誠一郎が何如璋をつれて勝海舟を訪れました。勝は興亜会支那語学校の校舎の借り受けの仲介をし、支那語学校は8月25日に移転しました。論文『興亜会の成立』では、勝は徳川時代すでに三国提携論を主張していたので興亜会の重要な支援者であり、勝の三国提携論は西郷を通し、曽根俊虎にも影響していたのだろうと論じています。
*黒木彬文『興亜会の成立』政治研究(通号30)1983.3、pp.73-110
黒木論文のこの箇所で注目すべき点は、勝の三国提携論は西郷隆盛を通し、曽根に影響を与えていたと指摘している点です。この指摘から西郷も三国提携論者で、明治6年に西郷は朝鮮政府へ三国提携論を説きに行こうとしていたのではないか、しかしそれでは征韓のための戦争は生じないので、戦争を望む軍人、警察官、不平士族たちをどこへ連れて行こうとしたのか、どうにかしようとしていた「はず」ですから、この二項目から西郷の構想を推論してみます。
西郷は、北海道と満州(東三省)の黒龍江右岸に屯田兵を配置し、陸上でのロシア陸軍の南侵へ圧力を加え、海上では勝、榎本の海軍が対馬−釜山を戦略拠点としてロシア太平洋艦隊を北の海に封じ込め、サンクトペテルブルクから派遣されるロシア艦隊および補給艦隊と太平洋艦隊とを分断することを構想しました。西郷の建議*により明治6年11月に西郷一派の黒田清隆は屯田兵制度を創設し運用を開始していました。
大陸内部の伊犂地方で1866年紛争が生じ、ロシアの介入を受け、清国軍は内陸部へ軍勢を移動させる必要が生じていました。清国側にさらに軍事力があれば、黒龍江右岸および北京条約で露領とされた沿海州への軍事圧力をかけ、チャンスがあれば取り戻すことが出来ます。この地域が三国提携した清国領になれば、日本の安全保障は強化されます。そこで、西郷は、不足している清国軍のこの方面の軍事力を日本が肩代わりし、さらに、日本の国内問題を解決しようという構想を抱きました。
これにたいしロシアは樺太全島占領、北海道侵略の報復にでる恐れがあります。また、三国提携が表面化すれば、列強は軍事同盟と認定し、黙っていないでしょう。新たな戦争を誘発する恐れがあります。西郷は列強に了解を得る算段があったのか、それとも戦うつもりだったのか。明治10年の西南戦争で撃ちまくった弾丸や使いまくった資金、失われた人命と人材、戦後の国内の経済の苦境などを考えると西郷の軍略にかける価値はありました。明治5,6年の時代に立ってみて、当時入手可能な情報のもと、そこまで考えることができるかは疑問ですが。勝の神戸操練所で学んだ薩摩藩士たちは日本海軍を実効支配し、清国との戦いを求めました。三国提携論に賛同し、特にロシアの南侵と集団安全保障策を選択していた人物は、薩摩閥の中では西郷だけだったということになります。
この構想実現には、日清韓の間での密約にしろ、三国提携を締結する、日本から派遣された義勇軍(屯田兵)が満州へ向けて朝鮮国を通行する許可を必要としました。
この西郷の構想から生じる列強国やロシアとの摩擦を恐れ、大久保や木戸は内地優先という看板を立て、西郷が朝鮮国へ単独で出向くことに反対し、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らが宮中工作をした結果、西郷は朝鮮国へ出発できなくなりました。これに反発した西郷は、前月10月24日に辞表を出し、大陸国家論者の副島種臣、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平の5参議および親派の役人、軍人らと共に下野し、帰郷しました。「明治六年の政変」と呼ばれました。
*北海道屯田倶楽部 編『屯田兵 : 歴史写真集』,北海道屯田倶楽部,1984.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11991658 (参照 2023-10-06)
(参考 副島の征韓論、大陸経綸論 http://www.johoyatai.com/3078)
明治15年6月23日の東京日日新聞の記事、「露国清朝廷へ難題を吹掛く 折角結んだ伊犁條約も一片の反故」は、ロシアの視線が伊犂から満州へ移ったことを報じました。
『・・・要求は左の如し。○第一條、露清の境なる満州士官は満州兵の外は一切之れを率[?]ゆべからざる事及び清士官は必ず清兵のみを率ゆ べき事。○第二條、伊犁なる兵營の清兵は全く満州兵と交代すべき事 ○第三条、露政府は伊犂条約に定めたる如き一ヶ年の中には伊犂を還付せざる事。○第四、第五、 第六の三ヶの要求は、再度の確報を得ざれば爰[ここ]に記載して世に公けにするも憚り[はばかり]あるべき難題にて実清国も之を忍ぶ能はざるべし忍ぶ能わざれば兵馬馬見えざるべ からず、実に難事と云ふべし、扨[さて]又露國が何故に満州人をして守境の兵たらしめんと望めるやを問ふに、満洲人は概ね利慾に走り、貨賄之れを誘ふに安ければなるべし云々と、本月二十一日のガゼット新聞に見へたり、信偽は如何のものにゃ。』
西郷のアジア大局の見通しは間違っていなかったことをしめす記事です。西郷は早晩そのようなことが起きるので準備を怠らず、日本と協力し合いましょうと朝鮮国に言いたかったのでしょう。
第二に、曽根、宮島、勝、西郷、渡邉の関係です。曽根と宮島は旧米沢藩士でした。宮島は戊辰戦争勃発時、米沢藩の国家安寧のために奔走しました。慶応4年5月28日に宮島らは会津藩謝罪の嘆願書を手に寒風沢沖*¹から仙台藩の船で江戸に向かいました。5月30日、館山沖に停泊中の開陽の艦上で宮島は榎本と初対面を果たし、太政官に会津藩謝罪の嘆願書を提出する件を相談すると現状からすると成功の見込みは薄いとし、勝にも意見を求めるよう宮島に勧め、宮島は榎本のアドバイスに従い、奴風(やっこふう)に変装して築地海軍操練所から上陸し、6月2日に勝のもとを訪ねました。勝も榎本と同様の意見でしたが、さらに、今後の想定される展開からアドバイスを宮島に与えました。館山に集結し、兵庫港へ出動準備中だった榎本艦隊を勝が説得し、艦隊が4月17日に品川に帰港した後の出来事でした。宮島と勝、榎本とは協力関係にありました。(友田昌宏『戊辰雪冤』講談社現代新書、2012、pp.133-135)
渡邉洪基は明治元年、米沢藩に招聘され英語を教えました。このとき、曽根は渡邉から英語を教わりました。渡邉が米沢藩を去ると、曽根は江戸の藩邸に出て英語を学びました。クーデターを計画したかどで捕縛され、米沢藩へ押送される雲井龍雄が牢から藩邸へ移されたとき、曽根は雲井から逮捕の事情を聞きました。米沢藩へ押送された雲井は再び江戸に戻され、明治3年12月28日(1871年2月17日)に処刑されました。翌明治4年1月9日夜、雲井の処刑を執行した広沢真臣は、自宅で暗殺され、暗殺の嫌疑により67人が逮捕され、曽根はその一人でした。
曽根の釈放に西郷、勝、副島らが協力したという論考*²がありますが、憶測の域を出ていません。むしろ宮島誠一郎が自身の人脈を使って曽根の釈放運動をしたことの方がありそうな話です。曽根は釈放後、西郷の斡旋で民間の輸送船の乗組員に就職し、暫くして、勝が明治5年5月に海軍大輔に就任すると、6月、海軍少尉に任用されました。翌明治6年3月、曽根は副島種臣外務卿が特命全権大使として日清修好条規批准書交換のため清国へ派遣されるときの判任随員*⁴として初めて清国に渡り、以降、清国で情報将校の仕事に就き、清国側の人物たちとの人脈を広げました。『[明治]十一年一月、清国事情通の第一人者として天皇に進講』*³しました。その後の曽根の眼には、列強が無理難題をアジア諸国に突きつけ軍事力で支配し、植民地の人々への非道な扱いは、戊辰戦争で奥羽越列藩=東北諸国が西軍によって蹂躙され、戦後は占領国としての扱いを受けている姿が重なって見えたのでしょう。曽根はアジア諸国の独立を取り戻そうと活動を開始しました。この活動する姿が、雲井が、戊辰戦争が東北に迫るとき、宮島らと奥羽越列藩同盟を画策し、さらに雲井が「討薩檄」を書いてばら撒き、また、戦後、東京で敗残兵の面倒を見ていた姿と似ています。陽明学の知行合一を思わせる人生でした。
*¹さぶさわ、宮城県塩竈市。https://urato-island.jp/about/sabusawajima/
*²狭間直樹『初期アジア主義についての史的考察(2)第一章 曽根俊虎と振亜社』雑誌東亜、2001、p.89および注 (3) pp.96-97、佐藤茂教「『興亜会報告』と曽根俊虎—興亜会活動に曽根の一軌跡」『近代日本形成過程の研究』雄山閣、1978、p.440
*³黒木彬文『興亜会の成立』政治研究(通号30)1983.3、pp.76-77
*⁴はんにん。判任官とは『大日本帝国憲法下の下級官吏。高等官の下位で1~4等にわかれ,各省大臣・府県知事などによって任用された。』(コトバンク)
興亜会会員の政府職員は、非藩閥、非主流に属する人たちでしたが、渡邉洪基たちは政府では高級役人に属するため『政府の内外政策を大枠に於いて先取り、追認の形で支持』していました。一方、曽根俊虎たちも非藩閥出身でありながら、『高級役人ではないが故に、政府の対外政策の支持拘束性から免れていた。したがって彼らは、政府のアジア政策をアジア提携、日清提携の立場で批判するのみならず行動を起こす衝動をもって』いました。
その結果、渡邉洪基は附属学校である興亜会支那語学校(中国語学校)を明治15年5月14日に閉校にし、後に支那語学校は東京外国語学校に編入されました。学校設立の目的は語学修得では無く、『外交軍事の情報収集や通商貿易を通じて興亜主義を実戦する人材の養成』にあり、教授陣には曽根俊虎らがおり、渡邉洪基が『曽根の激しい興亜主義の思想教育が政府のアジア外交政策批判の色合いを帯びてくるのを警戒した』ためだろうと指摘されています。大久保、李鴻章、何如璋が企画した語学学校がさながら曽根らに乗っ取られた格好でした。曽根俊虎はその後、清国に革命を起こし、其の革命を日本に及ぼすことを画策する宮崎滔天と孫文とを引き合わせるきっかけを作りました。
出典
1.黒木彬文『興亜会の成立』政治研究(通号30)1983.3、pp.73-110
2.支那語学校の閉校に関しては、次を引用した。
黒木彬文・鱒澤彰夫『興亜会報告・亜細亜協会報告』不二出版、1993、p.10
日本がアジア諸国の一国という自覚のもと、先ず、アジア諸国の友好関係を築いていこうとする考え方は「初期アジア主義」と呼ばれています。興亜会は国内初のアジア主義の団体でした。狭間直樹『アジア主義とはなに か:初期アジア主義についての史的考察』(雑誌東亜、2001)によると、 アジア主義者の活動期間は、興亜会設立の明治13年(1880)~昭和20年(1945)の65年間 で、その期間を3つの期間に分けて考えることが出来ると論じています。
- 初期 1880~ 国家間とくに日清間が基本的に対等な時期
- 中期 1900~ 義和団事件により八カ国連合の共同出兵が行われ、その後、列強間の協調の枠の中で日本の優越を追求
- 晩期 1928~ 第二次山東出兵→済南事件、日本を頂点とし日本の利益だけを目指す
では、榎本の興亜会での活動を見てみます。
「明治14年の政変」が10月12日に起きました。12月に榎本が興亜会会長に就任しました。12月30日の興亜会の会報で興亜会顧問の福沢諭吉門下の会員たちが退会したことが報じられました。福沢門下生たちの退会理由は明らかではありませんが、政治的背景があったのだろうと考えられています。
榎本の会長時代、明治15年6月21日に興亜会の親睦会が開催されたことを東京日日新聞が次のように報じました。
『築地壽美屋にて開かれし興亜会員の親睦会には、会員榎本武揚、 副島種臣、渡邉洪基、伊藤雋吉[しゅんきち、としよし]、關新吾等の諸氏をはじめ清国欽差大臣黎庶昌併に・・・また客員は朝鮮金玉均通訓経筵侍講*¹大夫、承政院記注官*²徐光範ら・・・四名ほか三名・・・』
総勢、数十名が築地の割烹「壽美屋」に集まり、一杯やりながら漢詩や作文を交換し、揮毫し、日清韓三国の人々は団欒しながらアジア情勢、アジアの気運を高める方法など、思うところなどもろもろの話しをし、交歓した良い会でしたと報じられました。
*¹通訓経筵侍講。つうくん・けいえん・じこう。通訓とは朝鮮通信使への日本側の分類、正使・副使・従事のうち副使にあたる。コトバンク『説文通訓定声』を参照のこと。けいえんとは、王朝本来の制度で、「法講」とも称され、一日に朝・昼・ 夕の三回行われた。(論文要旨:金 成憓 (KIM, Sunghyae)『朝鮮高宗の在位前期における統治に関する研究(1864~1876)』一橋大学社会学研究科博士論文、2008、https://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/doctor/?choice=exam&thesisID=196)、「コトバンク」によると『経書を講義する席。また、君主が経書の講義をきかれる席。または、宮中の学問所。』、じこうとは『君主に奉仕して、学問の講義をすること。また、それをつかさどる人。侍読(じどく)。』
*²しょうせいいん(スンジョンウォン)とは、『朝鮮,李朝時代に王命と官僚の王への上言の出納を任務とした官庁』であり、きちゅうとは記録すること。(いずれもコトバンク)
下図4.は興亜会報告に記載された、金玉均らを招いた懇親会の記事です。
図4. 興亜会報告第30号の記事
参考文献および引用:
・黒木彬文著・熊本近代史研究会 編『興亜会の基礎的研究一会報の分析を中心にして一』熊本近代、第22号、1983、 P. 175~216
・黒木彬文『興亜会の成立』政治研究(通号30)1983.3、pp,73-110
・黒木彬文『興亜会のアジア主義と植木枝盛のアジア主義』福岡国際大学紀要 No.9 p.67~73(2003)
・黒木彬文・鱒澤彰夫編集解説『興亜会・亜細亜協会報告』不二出版、1993
・松野良寅『渡辺洪基と米沢の英学』英学史研究、1979、pp.121-128
・尾崎周道『曽根俊虎:米沢風土記 第三集』米沢市役所、昭和51、pp.67-70
・佐藤三郎『興亜会に關する一考察』山形大学紀要[1](3)-[1](4)、195103-08
(続く)
・アイキャッチ画像(図1)、図2の地図はgooglemapを利用した。
・図3は『興亜会報告・亜細亜協会報告 復刻版 第2巻』不二出版 1993.9より引用。
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