原真人『アベノミクスは何を殺したか』を読む
安倍晋三(1954~2022)が2012年12月に首相に就くや打ち出した経済政策は、いまではアベノミクスと呼ばれています。安倍が2020年9月に首相を退陣したあとも、そして2022年7月に凶弾に倒れたあとも、自民党政権の経済政策、日本銀行の金融政策として続けられてきました。その実質的な修正がやっと始まったようです。
2013年3月から2023年4月まで日本銀行総裁を務めた黒田東彦氏の後任になった植田和男新総裁のもとで7月末に開かれた日銀金融政策会合で、アベノミクスの柱であった「大胆な金融緩和」の手立てとなっていたYCC(イールド・カーブ・コントロール)の大きな修正が加えられたからです。
そんな時期に、アベノミクスとは何だったのかを多角的な視点で検討する好著『アベノミクスは何を殺したか 日本の知性13人との闘論』(朝日新書)が刊行されました。著者の原真人は、朝日新聞編集委員で、13人の論客とインタビューをもとに、自身の解説を加えています。
◆中曽氏の緊張感
どのインタビュー・解説も興味深いのですが、なかでも、1013年から2018年まで日銀副総裁を務め、その後、大和総研理事長になった中曽宏氏へのインタビューには双方の緊張感があふれているように思いました。というのもこのインタビューの記事が掲載されたのは2022年9月で、中曽氏は翌年春に任期が切れる黒田総裁の後継候補のひとりといわれていたからです。原記者と中曽氏のやり取りに、こんなところがあります。
中曽 先進国の中銀(中央銀行)は量的緩和やマイナス金利政策、長短金利操作など非伝統的と言われる未踏の領域を奥へ奥へと進んでいきました。日銀はその先駆者とも言えます。それが世界経済を下支えし、回復を後押ししてきたのは間違いありません。(中略)いよいよ欧米の中銀が利上げで金融政策の正常化にかじを切っているいま、日本でも蓄積されたリスクに目を向けなければなりません。
――日銀の国債保有額が膨れ上がっている現状も深刻です。
中曽 日銀が買い入れた国債の保有残高は、政府発行残高のほぼ半分と非常に大きいです。その影響で経済情勢に応じて価格が変動する市場機能が働いていません。これを回復させなければなりません。日銀が正常化に乗り出せるのはしばらく先でしょうが、世の中が落ち着いたら緊急モードを脱し、物価と金融システムの安定をめざす通常の日銀の仕事に戻るべきです。
原記者は中曽氏について「黒田日銀の執行部にいながら異次元緩和には慎重な考えを持ち、ときには日銀内部で数少ないブレーキ役を果たしてきた」と解説しています。中曽氏は、日銀を離れたとはいえ、非伝統的な手法による金融緩和に「蓄積されたリスク」があるとし、日銀の大量の国債保有によって、金融市場の市場機能が働いていないと断じています。これだけのことを言うには相当な覚悟があったと思います。
今年になって、次の総裁についての人事観測は一段とかまびすしくなりましたが、そんな折、「中曽氏の総裁はない」という“有力情報”が流れました。私は、その理由を聞いてのぞけりました。「中曽氏が朝日新聞の原真人編集委員のインタビューを受けたから」というものだったからです。
原記者が黒田総裁の天敵と言われている、ということは聞いていましたが、インタビューを受けたぐらいで、後任総裁の芽がなくなるという話が「情報」となるところに、この国の病理を感じました。トップの気に障るようなことをしてはいけないという忖度社会の成れの果てだと思ったからです。とはいえ、中曽氏にすれば、黒田日銀の執行部のひとりとして、自分が次期総裁になることはない、という意思表示だったかもしれません。そんな背景を考えながら、本書を読みました。
◆藤巻氏の悲観論
本書で、日銀の金融政策に最も批判的で、最も悲観的だったのは米銀の東京支店長や参議院議員などの経歴を持つ藤巻健史氏でしょう。日銀が国債の半分も保有するというのは、政府の借金を中央銀行が肩代わりする「財政ファイナンス」であり、日銀がYCCで、長期金利を低く抑えるために国債の保有を膨張させたのは、まさに「財政ファイナンス」であり、中央銀行がやってはいけないことだと言います。
その結果起きているのが円安で、藤巻氏は「1ドルが400円、500円になってもおかしくない」と語っています。2022年4月のインタビュー時の円相場は121~129円でしたから、円安は、藤巻氏の予測に向かっているようにも見えます。
――将来のハイパーインフレは防げない、と?
藤巻 政府の借金がたまってしまったら、増税で返すか、踏み倒すしかありません。あとは戦争で他国の資産を強奪するというのがありますが、今の世の中では論外です。鎌倉時代や江戸時代は棄捐令とか徳政令で踏み倒したのでしょうが、今はそうはいきません。棄捐令や徳政令の代わりがハイパーインフレです。
――国民に自衛手段はあるのですか。
藤巻 今ならドルを買うしかないでしょうね。(中略)日銀が財政ファイナンスをやったら、ハイパーインフレになることは歴史が証明しています。
(中略)
――何とか止められないのでしょうか。
藤巻 もう無理でしょう。すでに日銀はルビコン川を渡ってしまいました。(中略)すでに真の中央銀行はこの国にありません。
◆藻谷氏の楽観論
藤巻氏のもう間に合わないという悲観論に対して、まだ間に合うという楽観論を語っているのは、『デフレの正体―経済は「人口の波」で動く』(2010年、角川新書)で、デフレの原因は、生産年齢人口の減少だと論じた地域エコノミストの藻谷浩介氏です。デフレを金融現象と見て、金融緩和でデフレ脱却を試みたアベノミクスとは正反対の立場ということになります。
この10年の結果は、藻谷氏の見方がより正しかったということになりますが、原記者はこれからの未来図について尋ねています。
――いま備えるべきことは何ですか。
藻谷 やれることはたくさんあります。たとえば自然エネルギーや、国内産の食料・飼料の生産をふやして自給率を上げて、輸入額を抑えることです。日本の農業がまだ試していない技術革新の材料はいっぱいあります。世界には降水量、日照量、土地などの好条件がそろわない国が多いなかで、実は日本はそのすべてがあります。現在4割ほどの自給率を6~7割にすることは十分に可能です。それに生産年齢人口が減ったとしても、AI(人工知能)とロボットによる省力化でこれも乗り越えられるはずです。
13人全員の話をここで取り上げたくなるのですが、最後に、保守の論客として知られる佐伯啓思氏や資本主義の歴史を研究する水野和夫氏の大局的、歴史的な見方は刺激的で、それを引き出した原記者の「腕」にも敬意を表したいという感想を述べて、この稿を終えます。
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この記事、筆者は高成田さん?