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ドイツ・ウーラント紀行③

2023.06.20 Tue

シュトゥットガルト

 

ハイデルベルクに1泊して、翌日はシュトゥットガルトに行きました。列車で約1時間でした。シュトゥットガルトは人口63万でドイツ6番目の大都市、ダイムラーやポルシェの発祥の地であり現在も本社を置いているなど、経済都市になっています。ウーラントの時代には、前述したように、ライン同盟に属したヴュルテンブルク王国の首都として栄えました。

 

1808年にテュービンゲン大学を卒業したウーラントは、テュービンゲンで弁護士をしたのちの1812年、シュトゥットガルトにある司法省で働くようになります。無給だったそうで2年後に退職したのち、ここにある弁護士事務所に移り、1819年からはヴュルテンブルクの身分制議会でテュービンゲン選出の議員となり、1826年に退任するまで政治家として活動します。テュービンゲン大学の教授としてテュービンゲンに帰郷したのは1830年ですから、およそ20年をこの町で過ごしたことになります。ウーラントにとっては第二の故郷ともいえる町です。

 

ウーラントゆかりの場所も多いわけで、シュトゥットガルトの古い地図を手にした釜澤さんの案内で、ウーラントが居を構えた場所、弁護士事務所、熱弁を振るった議会などのあった場所を回りましたが、いずれも建物は残っていませんでした。激しい空爆で町全体が破壊されたからだと思いますが、ウーラント老年探偵団としては、ゆかりの地を訪れることに意味があると思っているのです。(下の上段の写真はウーラントの自宅あたり、下段の写真は空襲を受けたシュトゥットガルトの町=ウィキペディア)

市内の観光地である宮殿広場のあたりを歩いていたら、大きな時計台のある教会を見つけました。地図で見ると、シュティフト教会、ヴュルテンブルク福音ルター派教会の首座教会でした。もともとは10世紀にさかのぼる教会でしたが、16世紀前半に起きた宗教改革によって、この地域におけるルター派の総本山になりました。空襲で大きな損害を受けたのですが、戦後、再建され、外見はクラシック、中はモダンという建築物になっていました。(下の写真はシュティフト教会)

南ドイツはカソリックが多い地域だと思っていたのですが、ヴェルテンブルクはプロテスタントが強い地域で、このあと訪れたフェルバッハ市シュミデンのディオニシウス教会もルター派の教会でした。

 

ディオニシウス教会

 

この教会を訪ねたのは、ウーラントの「渡し」の詩にうたわれている人のゆかりの場所だからです。シュトゥットガルトの市内からタクシーで20分くらいのところで、静かな住宅地のなかにあり、墓地を抜けると、教会の美しい時計塔が見えてきました。(下の写真はディオニシウス教会の時計塔)

 

前述したように、「渡し」は、かつて友と渡ったネッカー川の渡し船で越えながら、亡くなったふたりを偲ぶ詩です。

 

一人はおもわ ちちに似て

一人は希望に 燃えたりき

 

一人は静けく 世にありて

静けきさまに 世をさりつ

若きは嵐の なかに生き

嵐のなかに 身を果てぬ

 

この詩のなかにある父に似ているひとは、ウーラント夫人による『伝記』などから、母方の伯父にあたるクリスティアン・ホーザーのことだとわかっています。この人が1800年から亡くなるまでの13年間、第23代の牧師としてこのディオニシウス教会にいたのです。

 

亡くなったのは1813年5月21日、葬儀は23日でしたから、葬儀からちょうど200年後の日に私たちは教会を訪れたことになります。案内してくれた第41代のベルンド・フリードリヒ牧師は、ウーラントが伯父の死を悼んで作った「ある田舎牧師の死について」(Auf den Tod eines Landgeistlichen)を紹介しながら、「ホーザー牧師は穏やかな人で、地元の人々にも愛されていた」と話しました。(下の写真の中央は教会を案内するフリードリヒ牧師)

それからあなたは、いつものように野をそぞろ歩き

そして刈り入れをする人たちと親しげにやさしく挨拶する

 

Dann wandelst du, wie einst, durch das Gefild

Und grüßest jeden Schnitter freundlich mild.

 

上記は、「ある田舎牧師の死について」の一節で、ホーザー牧師が地元の農夫たちと親しく接している様子が浮かんできます。

 

フリードリヒ牧師によると、教会は12~13世紀に建てられ、改築や増築を重ねてきました。教会内の一面の壁画は、15世紀の後半、教会が宗教改革を受け入れる前のカソリック時代のフラスコ画で、宗教改革のあと石膏が塗られて隠されていましたが、1960年代になって壁画が「発見」され、洗浄と修復がなされたとのことでした。教会はプロテスタントのままですが、カソリック時代の壁画が出てきたことで、文化遺産として評価されているわけです。(写真は、1960年代に復活した教会のフレスコ画)

16世紀に新教となった教会は、旧教時代の壁画を塗りつぶしてしまうほど旧教を敵視していたということでしょう。そうした旧教と新教の対立がウーラントの「渡し」に登場する城を廃墟にしていたことを、教会訪問後に訪ねたホーフェン城で知ることになります。

 

ホーフェン城

 

ウーラントが「渡し」のなかで、「入り日に映ゆる岸の城」と、うたったホーフェン城を案内してくれたのは地元の郷土史家、ヴォルフガング・ツヴィンツさんでした。ここがウーラントの「渡し」の場所だという案内板を2017年に設置した人です。今回のドイツ旅行にあたって、釜澤さんがこの人を探し当て、現地で話をうかがう手配をしました。ツヴィンツさんは、ディオニシウス教会の牧師との面談もアレンジし、教会にも付き添ってくれました。

 

ホーヘン城は、教会から車で10分足らず、ネッカー川のほとりの小高い丘に建っていました。城の原型はとどめず、城の壁の一部が残っているだけで、廃墟と呼ぶのがふさわしい状態でした。ツヴィンツさんによると、この城が破壊されたのは、歴史の教科書にも出てくる「三十年戦争」(1618~1648)のときだったと言いますから、ウーラントが渡しに乗った19世紀前半にも、いまと同じような廃墟になっていたことになります。地元の言い伝えでは、破壊されたのは1622年または1632年で、破壊者はプロテスタント側についたスウェーデン軍だったそうです。(下の写真はホーヘン城の遺跡)

Wikipedia(独)によると、この城は1250年ごろに、ヴェルテンブルク伯爵がネッカー川の交易路を確保するために建設しました。三十年戦争で焼失したのち19世紀に城の一部が取り壊されましたが、1999年にシュトゥットガルト市が城を購入して、改修したそうです。(下の絵は、破壊される前の中世のホーフェン城を描いたもの)

この高台から眺める新緑に包まれたネッカー川は美しく、ここを渡った人たちも、川面に映える木々を眺め、廃墟と化したホーヘン城を見ながら、さまざまな想いにかられたのではないでしょうか。私に思い浮かんだのは、ウーラントの「渡し」ではなく、

 

ああ 川の流れのように

ゆるやかに

いくつも時代は過ぎて

 

美空ひばりの「川の流れのように」(秋元康作詞、見岳章作曲)でした。

 

ホーフェンの渡し

 

ホーフェン城から川に沿って下ったところに、渡し守が待機した渡し小屋が残っていました(下の写真上段)。ツヴィンツさんの案内板によると、小屋ができたのは1813年だそうで、1912年ごろの渡し場の写真(同下段)にも、この小屋がちゃんと写っています。小屋の外壁には、洪水の時の跡がいくつも残っているので、小屋はいくたびかの洪水に耐えてきたということになります。

東アルプス山脈のふもとからテュービンゲン、シュトゥットガルト、ハイデルベルクを経てライン川と合流するネッカー川は、ライン川と同じようにローマ時代から交易路として使われてきた歴史があり、案内板によると、1350年にはここの渡しの記録があるとのこと。案内板に掲載された20世紀はじめの写真を見ると、多くの人が乗っているもの(下の写真左)や、結婚式の人々が船上にあふれているもの(写真右)などがあり、渡しこの地域の人々の生活に密着した交通機関であることがわかります。近くに堰と橋が建設され、1934年に渡しは廃止されました。ウーラント探偵団としては寂しい限りで、ネッカー川に船を浮かべたいという思いが残りました。テュービンゲンでそれを実現した話は次回、書こうと思います。

 

「渡し」を歌う

 

渡し守の小屋からネッカー川のほとりを少し歩いたところに、ツヴィンツさんらが立てた案内板がありました。ツヴィンツさんは、ここで「渡し」の詩を吟じはじめました。すばらしいバリトンで、そらんじているのでしょう、詩集も手帳も手にしていませんでした。ドイツ語はわからない私は、ツヴィンツさんが指を3本立てたところで、「受けよ舟人 舟代を/受けよ三人の 舟代を」のくだりだとわかりました。(下の写真は、案内板の前で「渡し」を吟じるヴォルフガング・ツヴィンツさん)

 

こうなると、わがチームは松田昌幸さんの出番です。半世紀も前にウーラントの「渡し」に興味を持ち、4半世紀前にカール・レーヴェがこの詩を歌曲にしていたことを知ると、ドイツ歌曲の声楽家、佐藤征一郎さんに接触して、この楽譜を手に入れ、習っていた声楽のレパートリーに加えた人です。昨年、私たちが出版した『「渡し」にはドラマがあった』には、次のように書いています。(下の写真は、ネッカー川のほよりで「渡し」を歌う松田昌幸さん)

「私の次の目標は、(中略) 今回見つかったホーフェンの渡し場から舟に乗って、このカール・レーヴェの『渡し』を歌うことである」

 

ネッカー川の舟の上ではありませんでしたが、この川のほとりで、ツヴィンツさんに負けない朗々とした歌声でした。遠くの堰から聞こえてくる水の音と川からのそよ風が揺らす木々の葉ずれが伴奏になり、心に響く見事なテノールでした。歌い終わったときの松田さんの感想は

 

「本には願望を掻いたのですが、まさか本当にネッカー川で歌う機会が来るとは思いませんでした」

 

ツヴィンツ家にて

 

「渡し」の舞台となったホーフェンのネッカー川を見るという私たちにとっての旅の一大イベントは、松田さんの熱唱で終わりました。ほっとしたところで、ツヴィンツさんが私たちをご自宅に招いてくれました。川から車で数分のシュトゥットガルトの住宅地でした。

 

外はまだ明るかったのですが、緯度が高いためで、お茶をいただいているうちに時計の針は午後5時を過ぎ、そのまま夕食をごちそうになることになりました。ツヴィンツ夫人のテレジアさんが食卓に出したのは自宅で焼いたパン。これも自家製のジャムでおいしくいただいていたところ、出てきたのがシュヴァーベン地方の伝統料理というマウルタッシェンでした。ひき肉などをパスタ生地で包んで揚げた大ぶりのラビオリで、炒めたタマネギがソースのように上に乗っていました。肉の汁が染みたパスタとタマネギの相性は抜群で、私はついお代わりをしてしまいました。(下の写真はツヴィンツ家で出されたマウルタッシェン=左=とポテト=右)

料理を出し終わって台所から出て食卓に着いたテレジア夫人に、聞きたかったことを質問しました。「シュヴァーベンの主婦って、どんなひとですか」という問いです。2008年にリーマン・ショックが起きたときに、当時のメルケル首相は、欧米諸国がこんな窮状になったのかを知りたければ、シュヴァーベンの主婦に聞けばいいと言ったそうです。シュヴァーベンの主婦なら、分不相応な暮らしを永遠に続けることはできないと教えてくれたはず、という意味だったと報じられています。(下の写真は、食卓で談笑するテレジア夫人)

テレジア夫人は、メルケルさんは東ドイツの出身だからシュヴァーベンのことはしらないはずと答えたのち、ひと呼吸おいて、少し襟を正すようにして、次のように話しました。

 

「シュヴァーベンの主婦は、正直で、倹約好きで、つつましく生きることを大切にしています」

 

ところで、ドイツ語を話せない私が夫人との会話をどう成立させたと思いますか。答えはスマホです。Googleの翻訳アプリを入れて、ドイツ語・日本語としたうえで、マイクのマークを押して日本語を話し、スピーカーのマークを押すと、ドイツ語が流れてくるのです。夫人に私のスマホを手渡すと、夫人がドイツ語で話したあとに日本語が流れるということで、会話ができるのです。

 

そんなの常識だよと言われそうですが、私はこの日までスマホにこんな機能があるとは知りませんでした。実は、ディオニシウス教会で、牧師がスマホで話すと日本語になるという仕方で、教会の説明をしてくれたので、どんな通訳機なんだろうと思ったらスマホでした。牧師は翻訳機能の能力を心配して、何度も「私の話を理解をできますか」と尋ねていましたが、ほとんど理解できました。ただ、教会の建物の説明で、何度も「聖歌隊」という言葉が出てくるので、気になったのですが、「クワイヤ」と呼ぶ聖堂の一区画だということがあとでわかりました。ドイツ語ではchorで、英語のchoirと同じで、聖歌隊が通常の訳語でした。

土井乙後画来るので、がでてくるので、今日のどのスマホでもアプリを入れればできると教わり、早速活用した次第です。旅に出なければ、知ることもなかった技術です。まるで年寄りの言いぐさですが、便利な世の中になったものです。

 

この夕食会には、一緒に暮らしている次男のシュテファンさんとともに、別のところに住む長男のトマスさんも加わりました。ふたりとは、英語で話をしたのですが、長男はワイン会社、次男は銀行で働いていました。ワイン会社と聞いて、さきほどの食事でいただいたワインはと尋ねたら、「うちの会社のワイン」との答えが返ってきました。(下の写真は、飲み干したシュヴァーベンの古典と評されるカンスタッター・ツッカー・トローリンジャー)

 

さわやかな香りの優しいワインだと思ったのですが、ネッカー川のほとりで獲れたブドウ畑で作ったワインだと聞いて、おいしさの記憶が倍加しました。ドイツに限らないのですが、ライン川、モーゼル川、ネッカー川などドイツでは川沿いにブドウ畑が広がっていて、ワイナリーも多いようです。ドイツはビールだと思っていたのですが、ワインもおいしいと認識して、ツヴィンツ家を辞しました。

 


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