ドイツ・ウーラント紀行②
◆ユーレイル・パス
19世紀のドイツの詩人、ルートヴィッヒ・ウーラント(1787~1862)の「渡し」という詩にまつわる地を訪ねるドイツの旅で、到着したフランクフルト空港から鉄道で向かったのはハイデルベルグでした。途中、マンハイムでの乗り換えを含め1時間弱でした。
今回の旅行の移動手段は主に鉄道だったので、期間内は乗り放題という「ユーレイル・パス」を日本で用意していきました。ところが、いざ使うとなると、高齢者集団にとっては、やっかいなシロモノでした。スマホにユーレイル・パスのアプリをダウンロードして、利用するたびにそのアプリから列車のQRコードを呼び出し、それを乗務員に見せるというシステムです。行き先と出発可能な時間を入れれば、いつも使っているYahooの路線情報と同じように、適切な列車を示してくれるので、とても便利なはずでした。
しかし、QRコードを画面上に呼び出すには、インターネット接続が必要なので、Wi-Fiの環境がないと、つなげるのに苦労することになります。デジタルに慣れている人なら、そのときだけデータローミングをオンにすればとか、海外で通用するsimカードを事前に用意するとか、対応は簡単なのでしょうが、私たちは、うまくQRコードを呼び出せないことも多く、乗務員の検札が来るたびに、「開けゴマ」と祈るようにスマホをあけていました。
コロナ禍もあり、久し振りの海外旅行だったせいか、飛行時間が長くなっていたり、スマホを使いこなせないと列車に乗るにも不便になったり、新たな発見が多い旅になりました。ウーラントの古きをたずねる「温故」よりも、新しい現実に戸惑う「知新」で苦労したことになります。
◆ハイデルベルク城
さて、ハイデルベルクでは、ハイデルベルク城からハイデルベルク大学の周辺、さらに「哲学者の道」へというお決まりの観光コースをたどりました。ウーラントの関係でいうと、1956年の朝日新聞への投書で、「渡し」の詩の作者がウーラントであることを知った猪間驥一は、この詩は歌曲になっているはずだと考え、1961年にドイツに留学した折に、ハイデルベルクを訪ねます。ここが「渡し」の舞台だと狙いを定め、地元の新聞に「渡し」の楽譜を探している、という記事を掲載してもらいます。なぜ、ハイデルベルクだったのか、猪間は雑誌『音楽の友』の「原詩物語 『渡し場』の譜」と題した寄稿(1965年)では、「私の足はおのずからハイデルベルクに向かった」と記して、その根拠には触れていません。(下の写真は崩れかけたハイデルベルク城の一部)
研究熱心な釜澤さんは以前から、猪間がハイデルベルクにおのずから足を向けたのは、ヴィルヘルム・マイヤー=フェルスター(1862~1934)の戯曲『アルト・ハイデルベルク』(古き良きハイデルベルク)が影響しているのではないか、と推測していました。この戯曲はフェルスターが1898年に発表した小説をもとにフェルスター自身が戯曲化し、1901年にベルリンで初演されて以来、世界に広まったそうで、日本でも人気になりました。以下は、釜澤さんの解説です。
「この戯曲によって、日本の人々にとって《ハイデルベルク・大学・古城・ネッカー川》は憧れの対象となり、旧制高校で学んだ猪間教授も長年探し求めた詩の作者がネッカー川辺で生まれ育ったウーラントと知って、詩の舞台がハイデルベルクであってほしいと考えたのでしょう。ただ、ハイデルベルク城を望むネッカー川には、ウーラントの時代には橋が架けられていて、渡しは存在しませんでした」
世界に広まったという戯曲の内容は、ハイデルベルク大学に遊学したザクセンのある公国の王子がこの町で知り合った娘と恋に落ちる物語。王子は、大公になるため恋人と別れて故郷に戻るのですが、数年後、なつかしくなってハイデルベルクを訪ねると、別れた恋人と再会することに…、という話だそうです。
ウィキペディアは次のように説明しています。
「20世紀前半において最も数多く上演されたドイツの演劇作品の一つである。この作品がハイデルベルクの町を世界的に有名にし、日本では明治時代においてドイツ語を学ぶ学生にとっては必読書であった。昭和時代前期になってもそうした雰囲気は残っていた」
日本での初演は1912年の有楽座で、娘役は松井須磨子(1886~1919)、その後も山本安英(1902~1993)や杉村春子(1906~1997)ら錚々たる女優が演じたそうですから、演劇好きの人たちにとっても必見の劇だったかもしれません。皇太子ご成婚(1959年)によるミッチーブームが冷めやらぬ1964年には、日生劇場で『若きハイデルベルヒ 皇太子の恋』と題された「音楽劇」が上演されます。「アルト・ハイデルベルク」を石原慎太郎が潤色したもので、北大路欣也と梓みちよの主演でした。その後も1977年には中村勘九郎、大竹しのぶ主演で再演されています。
1964年の音楽劇で、梓が歌った「リンデンバウムの歌」(岩谷時子作詞、山本直純作曲)はレコード化され、ヒットしたようです。私も音楽劇の記憶はないのですが、この歌には聞き覚えがありました。ハイデルベルクを歩いているときに、妻がこの歌を口ずさんでいたので、この稿を書くにあたって、ハイデルベルクでなぜ、あの歌を口ずさんだのかと、尋ねました。その答えは「あの歌は、ハイデルベルクの娘に皇太子が恋した物語の歌でしょう」とまさに「正解」でした。当時の中高校生にとっては印象深い歌だったのでしょうね。梓の歌はYoutubeにもアップされています。
https://www.youtube.com/watch?v=5IwE1N_Ose8
ハイデルベルグ城で、ウーラントとこじつけるもうひとつの資料を見つけました。城の案内所に置いてあった日本語のパンフレット(無料)です。パンフレットには、ハイデルベルク城は「19世紀初頭以来、ロマン主義の代名詞ともなっています」と書かれ、次のような説明がありました。(下の写真は、観光客でにぎわうハイデルベルクの旧市街地)
「19世紀のドイツ・ロマン派において、居城が戦争や栄華の儚さの象徴となったのも不思議ではありません」
ウーラントは、ドイツ・ロマン派を代表する詩人のひとりですから、ハイデルベルク城のたたずまいは、「ロマン派唯一の抒情詩人」と、ハインリヒ・ハイネ(1797~1856)が評したウーラントの詩情に通じるものがあってもおかしくはありません。私の持っている「ウーラント詩集」(Gedichte Ludwig Uhland、前回参照)で、ハイデルベルク城という語句を探しましたが、見つけることはできませんでした。ただ、「羊飼い」(Der Schäfer)という詩は、城のお姫さまと姫に恋する羊飼いを歌った詩で、ウーラントはハイデルベルク城のような古城から着想したのかもしれません。この詩について、ハイネは『ドイツ・ロマン派』(1965年、山崎章甫訳、未来社)のなかで、「ウーラントの歌のなかで一番美しい」と書いています。全部で7つのパラグラフからなる詩ですが、最初の1段落と最後の2段落を紹介します。
羊飼い
美しい羊飼いが、王城の
すぐそばを通り過ぎていった。
乙女が胸壁からそれを眺めていた。
彼女の憧れは大きかった。
(中略)
冬がすぎ、春がきた。
草花が一面に咲きほこると、
羊飼いは城へでかけていった。
だが、王女の姿はもう見えなかった。
彼は悲しみにみちて呼びかけた。
「こんにちわあ、王女さま!」
すると、幽霊の声がきこえてきた。
「さようなら、私の羊飼い!」
Der Schäfer
Der schöne Schäfer zog so nah
Vorüber an dem Königsschloß:
Die Jungfrau von der Zinne sah,
Da war ihr Sehnen groß.
(Unterlassung)
Der Winter floh, der Lenz erschien,
Die Blümlein blühten reich umher;
Der Schäfer thät zum Schlosse ziehn,
Doch sie erschien nicht mehr.
Er rief hinaus so klagevoll:
»Willkommen, Königstöchterlein!«
Ein Geisterlaut herunter scholl:
»Ade, du Schäfer meint«
訳詞は、『ドイツ・ロマン派』からの孫引きで、訳者は山崎章甫、原文はウーラント詩集から取りました。まさにロマンチックという形容詞がぴったりの詩ですね。ライン河畔の古城の廃墟に腰をおろして、この詩を何度も口ずさんだというハイネは、美しい詩だとほめたあとで、あれから二十年、自分はいろいろな現実を見て体験してきたので、「かつて私をとらえたあのいいようもない悲しみを、私はもう感じはしないのである」と、書いています。ロマン派、さよならというわけです。
◆ジャーマン・カモミール
ハイデルベルク城は、ルネサンス期の珠玉というオットハインリヒ館(下の写真左)、ワインの大樽(写真右)、城門塔(下段の写真)など見どころがたくさんありました。私が面白いと思ったのは、中世から近代までのドイツの薬の歴史を展示したドイツ薬事博物館でした。
いろいろな薬草などとともに、アスピリンも展示されていたので、近代の薬品工業を主導したドイツの製薬業は、薬草からはじまるドイツの薬事の歴史の積み重ねのうえにあることを誇示したいのかなと思いました。(下の写真左は薬事博物館の展示、右は初期のアスピリン)
人類がもっとも服用した薬といわれるアスピリン(アセチルサリチル酸)は、ギリシャ時代から鎮痛・解熱材として知られていたというヤナギの樹皮から分離されたサリチル酸をドイツのバイエル社がアサチル化したアセチルサリチル酸にしたものです。1899年にバイエル社によってアスピリンと商標登録され、サリチル酸の胃腸障害という副作用が除去されたために、全世界で愛用されてきました。
合理的なドイツ人は、化学薬品は信じても、もはや薬草などには見向きもしないのだと思っていたら、ドイツ人の薬草信仰は連綿と続いているようで、薬局でも薬草のハーブティーが売られているのには驚きました。ホテルの部屋に入ると、紅茶のティーバッグと一緒にカモミールやペパーミントンのハーブティーが置かれているところが多く、ドイツはハーブ好きなのだと改めて思いました。
ためしに寝る前、カモミールのハーブティーを飲んだところ、時差ボケで夜中に何度も目を覚ましていたのが一度も覚めずに朝を迎えました(個人の感想で、薬効を保証するものではありません!)。キク科に属するカモミールには、多年草のローマン・カモミールと一年草のジャーマン・カモミールなどがあるそうで、欧州原産のジャーマン・カモミールはドイツでは薬用として認定されていて、ハーブティーに利用されるのはジャーマン・カモミールが多いとのことです。ドイツ土産はこれだと思ったのですが、市内の薬局やスーパーにはあっても空港の免税店にはなく、買い忘れました。
◆ハイデルベルグ大学
ハイデルベルクの旧市街は、ドイツで最古の歴史を誇る1386年創立のハイデルベルク大学(現在の正式名称はループレヒト・カールス大学)の学生町でもあり、大学博物館(下の写真左)や学生寮などが散在しています。学生寮は学生の自治を象徴する学生牢(写真右)があり、壁一面には入牢者のシルエットや落書きが描かれていて、学生たちが悪行も含めて青春を謳歌していて様子がうかがわれます。
ところで、ウィキペディアはハイデルベルクについて「ロマン主義の発祥の地」と記していますが、その根拠は書かれていません。ドイツ・ロマン主義の始まりは1797年にイェーナで、シュレーゲル兄弟=兄ウィリヘルム(1767~1845)、弟フリードリヒ(1772~1829)=が雑誌『アテネウム』を創刊したときといわれていますが、19世紀初頭には、ハイデルベルクにロマン派と呼ばれる人たちが集まります。ハイデルベルク大学の講師だったヨハン=ヨーゼフ・フォン・ゲレス(1776~1848)、ゲレスが発行した新聞に寄稿していた詩人のクレメンス・ブレンターノ(1778~1842)、アヒム・フォン・アルニム(1781~1831)、さらにはハイデルベルク大学の学生だったヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(1788~1857)らです。
この町の酒場では、こうした若者たちがたむろして、人格化した神々が織りなすギリシャ神話のおおらかさ、フランス革命で現実化した共和制のモデルともいえる古代ローマの政治、啓蒙思想が否定した中世のどろどろとした幻想の物語、そしてナポレオンは欧州の解放者なのか征服者なのか、ビールジョッキ(ビアークルーク)を飲み干しながら熱っぽい議論を交わしている様子が目に浮かびます。
ウーラントが生まれ育ったテュービンゲンの大学やその後、移ったシュトゥットガルトで、詩人ユスティヌス・ケルナー(1786~1862)らと詩作にふけり、「シュヴァーベンのロマン派詩人」と呼ばれたのは18歳からの10年間で、その集大成ともいえる詩集を出版したのは1815年、28歳のときでした。前回、述べたようにウーラントの名前がいまも残るのはシューベルトが1820年に歌曲にした「春の想い」(Frühlingsglaube)で、ウーラントの1913年の作品です。
シュトゥットガルトを首都とするヴュルテンベルク王国は、ナポレオンの圧力下、1806年に結成されたライン同盟にバイエルンなどとともに加盟します。ナポレオンのロシア遠征(1812年)に駆り出されたヴュルテンベルク軍に所属していたウーラントの親友も、戦場で負傷したのちロシア軍の捕虜となったまま死亡しました。ウーラントの「渡し」に同乗する霊のひとりはこの人です。ドイツ・ロマン派に熱気を吹き込んできたフランス革命からナポレオンに至る旋風が次第にしぼむ一方で、旧態依然たるドイツは、なかなか「近代国家」に脱皮することができませんでした。そんな時代に青春時代を送ったのがウーラントです。
あらためて「春の想い」を読むと、「今、すべてが変わらなければならない」という想いは、春にことよせた新たな時代を願うウーラントの想い(信仰)と読み取ることもできそうです。以下は、「菩提樹」や「ローレライ」の訳詞で知られる近藤朔風が訳した「春の想い」の一番(二番は省略)です。
春にまつ
春風なよかに
夜昼吹きそめ
ものみないまし よみがえる
色香は清らに 声は新た
恐るな心よ
ものなべて変わるを
Frühlingsglaube
Die linden Lüfte sind erwacht,
Sie säuseln und weben Tag und Nacht,
Sie schaffen an allen Enden.
O frischer Duft, o neuer Klang!
Nun, armes Herze, sei nicht bang!
Nun muß sich alles, alles wenden.
◆哲学者の道
ネッカー川をさはんでハイデルベルク旧市街の北側にある小高い山(ハイリゲンベルク)の中腹に、ネッカー川と平行につくられている遊歩道があり、これが有名な「哲学者の道」です。眼下に見下ろすハイデルベルクの旧市街、ネッカー川にかかる赤いく作しいカール・テオドール橋、向かいの山に建つハイデルベルク城の景観は見事でした。この景色を一日中眺めていれば哲学理論のひとつも浮かんでくるのではと思ったのですが、夜行便で早朝に到着したフランクフルトからここまで一泊もしていないと考えると、早く寝たいとか、下までの急な坂道を歩けるだろうかと、なかなか哲学的な思考には至りませんでした。(下の写真は「哲学者の道」からみたハイデルベルクの旧市街)
ところで、この道を哲学しながら歩いた人は誰なのでしょうか。ガイドブックには「ゲーテをはじめ、多くの詩人や哲学者実際に歩いて思索にふけった」(『地球の歩き方・ドイツ』)とあります。ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ(1749~1832)は何度もハイデルベルクを訪れていますから、この小道を散策したこともあるでしょう。しかし、思索にふけるという意味では、ハイデルベルク大学に在籍した学者のほうがより多くの機会があったと想像します。
となると、46歳で正教授としてこの大学に着任して1816年から2年間を過ごしたゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770~1831)、1872年に教授となり総長も務めたクーノ・フィッシャー(1824~1907)、1896年から教授として7年間すごしたのち名誉教授としてこの町に居を構えたマックス・ヴィーバー(1864~1915)、1915年から17年間教授を務めたハインリヒ・リッケルト(1863~1936)、1921年から16年間精神医学を教えたカール・ヤスパース(1883~1969)などが想像できます。
それにしても著名な学者がずらり、ですね。私は学生時代、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(通称は『プロ倫』だそうです)を読みましたが、ほかのみなさまの業績は「敬してこれを遠ざくる」でしたので、どんな思索をされたのか、わかりません。今回のドイツ旅行では、ウーラントのころの時代精神を知ろうと、権左武志著『ヘーゲルとその時代』(岩波新書)を携えていきましたが、このわかりやすい解説書を読んでも、ヘーゲルの思想が理解できたとは、とても言えませんでした。
ただ、哲学と言うのは、データを駆使する社会学や経済学と違って、頭のなかで考える作業のようですから、散歩は気晴らしではなく、哲学することと同じであるように思えてきました。そうであるならば、あの道は、「哲学者の道」であって、社会学者や経済学者の道ではないと、思索の末に思い付きました。「絶対知」にはほど遠い感想で、弁証法の「アウフヘーベン」(aufheben)の道は険しいようです。
次回は、いよいよ「渡し」の舞台、シュトゥットガルトです。
(冒頭の写真は、ネッカー川河畔で見たカール・テオドール橋)
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