榎本武揚と国利民福 最終編二章―3(2) 民間事業(2)
2020年 浦賀奉行所開設300周年記念バッジ
榎本武揚と国利民福 最終編二章―3(2) 民間事業(2)
・浦賀船渠株式会社・・・中島三郎助を偲ぶ
明治5,6年頃創立と考えられる北辰社の会社概要、経営指標など企業情報は集約されず、明確になっていませんが、明治30年創業の浦賀船渠株式会社の経営情報は『浦賀船渠六十年史』(昭和32年6月22日)などに詳しく記録されています。榎本は、浦賀船渠株式会社創立を強く推進しました。会社設立の主旨からすると国利民福とは直接関係ないように見えますが、企業家としての榎本達の心意気を伝える浦賀ドックを紹介します。横須賀市が「浦賀レンガドック」*として紹介しています。
* https://www.wakuwaku-yokosuka.jp/uragarengadock.php https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/tokubetuten/22.html
【浦賀船渠株式会社の誕生】
通称、浦賀ドックです。中嶋三郎助は浦賀奉行所与力で安政元年5月(1854年)、主任として日本で初めての洋式・鳳凰丸を建造しました。箱館戦争で戦死した中嶋三郎助の招魂碑を明治25年に浦賀の愛宕山に建て、建碑式で荒井郁之助が浦賀ドック建設を提案し、榎本武揚が賛同、地元の富豪、臼井義兵衛が協力を表明しました。明治25年3月に荒井は中央気象台長を退任し、翌年、初代社長となる塚原周造は管船局長を辞任し、浦賀ドックの建設の準備を開始し、榎本農商務大臣に船渠会社創立を相談しました。中島三郎助が鳳凰丸を建艦した地にドックを建造しようと、明治27年9月に用地取得の動きが始まりました。
参考と引用元:浦賀船渠株式会社編『浦賀船渠六十年史』昭和32年6月22日、p.51-52
写真1 浦賀の愛宕山に建立された中島三郎助の招魂碑
(2020.1.25、筆者撮影)
【浦賀ドック完成までの道のり】
明治28年に東京石川島造船所の取締役会長渋沢栄一が発議し、専務取締役梅浦精一が浦賀の川間に新たなドックを建設することを企画しました。恒川柳作*¹の設計で、明治28年11月に着工し、明治31年に東京石川島浦賀分工場 (以後、川間ドック)として営業を開始しました。これでは、浦賀船渠と競合し、ダンピング競争となり共倒れの恐れがあると塚原たちは危惧し、川間ドック建設中に、石川島側に相談を持ちかけました。しかし、このときは折り合いがつかず、浦賀ドックが明治33年に営業を開始後、改めて話し合い、明治35年に浦賀ドックが川間ドックを買収し、競合を廻避しました。(買収経緯は文末、参照)
写真2は、浦賀ドックより先に営業を開始した川間ドックです。イギリス積み・オランダ積み*² のレンガ造りのドックです。レンガは船渠築造地の近くに製造工場を建て、工事に供給しました。イギリス積み・オランダ積みのレンガの積み方(写真2-2)は、水平方向にレンガの長辺を繰り返し並べ、その上下は短辺を繰り返し並べます。一方、フランス積み(フランドル積み、写真3-2)は、水平方向に、レンガの長辺と短辺を交互に並べます。
* ¹西澤泰彦『明治時代に建設された日本のドライドックに関する研究』土木使研究第19号、1999、P.151-154 https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1990/19/0/19_0_147/_pdf/-char/ja
*²「煉瓦ミニ知識」煉瓦研究ネットワーク関東、https://main.renga.tokyo/knowledge.html
参考および引用元、「旧横浜船渠株式会社第一号船渠」『帆船日本丸』、https://www.nippon-maru.or.jp/nipponmaru/no1-dock/
恒川柳作は、明治31年に、川間ドックに加え、横浜船渠株式会社第一号ドックも竣工させた。この第一号船渠は、『イギリス人技師H.S.パーマーの計画に基づき海軍技師恒川柳作が設計・監督』しました。技術面で関わりのあった英国人技師の影響で、川間ドックが「イギリス積み・オランダ積み」を採用したと考えられる。
写真2-1. 川間ドック
写真2-2. 川間ドックのオランダ積みレンガ壁
写真2.川間ドック(2009年、筆者撮影)
浦賀ドック完成までの簡単な略歴を次に示します。榎本の人脈から様々な人材が集まりました。
M28.1.10 浦賀に二つの造船会社が設立することのデメリットについて、浦賀船渠株式会社塚原周造、荒井郁之助が石川島梅浦精一専務と会見し懇談したが、話し合いが着かなかった
M28.12. オランダ人土木(水理)技師デ・レーケを依嘱し、さらに、横須賀造船の海軍技師・古川庄八*¹に協力を求め、船渠設計上の意見や横須賀造船所船渠の見学に便宜を得た。諸指導のもと、横須賀造船所の元海軍技師の杉浦栄次郎*²(恒川柳作の子分)が設計し、建設しました。後に古川はドックマスターを担当する。(ドックマスター:ドックの注排水、船の据付けの総監督)
M29.8 ドイツ人技師、エフ・ネルリング・ボーケルを雇用
M29.9.28 浦賀船渠・創業総会開催
M30.6.21 浦賀船渠・設立登記、創業日となる
M32.年末 浦賀船渠・船渠築造終了
M33.1 浦賀船渠・開渠、古川庄八 浦賀船渠・船渠長に就任
M35.8 浦賀船渠、東京石川島播磨浦賀分工場を買収し川間工場とする
(買収までの経緯は、文末参照)
M35.10 フィリピン砲艦ロンブロン進水式と開業式の案内状に「顧問(技師)古川庄八」と記す
*¹ふるかわしょうはち、1835-1912、塩飽諸島出身。長崎海軍伝習所、オランダ留学組。箱館戦争に参加。敗戦後は、開拓使に出仕、横須賀造船所海軍技師として活躍した。
*²参考 レファレンス協同データベース(公益社団法人土木学会附属図書館)
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000194913
写真3は浦賀ドックです。フランス式のレンガ積み(フランドル積み)ドックです。浦賀船渠築造時、付近にレンガ製造所が作られ、レンガを船渠築造に提供しようとしましたが、製造されたレンガの品質がドック築造のための要求品質を満たさなかったため、市販に回されました。船渠築造用のレンガは愛知の業者から購入することになりました。
写真3-1 浦賀ドック内
写真3-2. 浦賀ドックのフランス積みレンガ壁
写真3.浦賀ドック(2009年、筆者撮影)
横須賀製鉄所のドックは石積みです。石積みは現場あわせで設計通りにドックを建設できます。煉瓦の場合は、個々のサイズに精度の高い公差が要求されます。煉瓦個々の公差の管理が甘いと、煉瓦を積み上げるにつれ、全体の形状どんどんずれていき、設計されたようにドックを作れません。写真4は、米軍横須賀基地で使用されているNo.1ドックです。小栗忠順が建設した横須賀製鉄所の石積み工法で作られたドックです。看板には、1871年に完成したと書かれています。横須賀製鉄所にフランスから招聘された技術陣が、明治維新に遭遇しても尚、建設を続けて完成させました。
写真 4-1
写真 4-2
写真 4-3
写真4. 横須賀製鐵所のちの横須賀造船所第一号ドック(2009年、筆者撮影)
明治20年代は、御雇外国人技師から日本人技師へドライドックの企画、設計、施工管理の知識の移転と実践開始の時代でした。日本人技師(エンジニア)達は、それぞれ外国人技師のバックにある技術の系統の影響を受けて実践していたことが、この三例から分かります。
[参考文献、資料]
・浦賀船渠株式会社編『浦賀船渠六十年史』昭和32年6月22日
・浦賀ドックhttps://www.wakuwaku-yokosuka.jp/uragarengadock.php
・1.浦賀ドック1.浦賀ドック|横須賀市 (city.yokosuka.kanagawa.jp)
・佐々木寛著「咸臨丸乗組員と横須賀製鉄所」『開国史研究 第七号』横須賀開国史研究会、平成19年
・横須賀海軍工廠編『横須賀海軍船廠史』横須賀海軍工廠、大正4年
【補足:合併協議から買収に至る経緯】
榎本が箱館に陣取って蝦夷嶋総裁[政府]を名乗っていることを、当時の渋沢は批判していた。その二人が浦賀で真っ向から事業でぶつかり合うことは興味深い事件だった。榎本達エンジニア集団の企業(Enterprise)が、商業を本業としている人々の事業に対し、みずからの信念を貫き通し、勝利した素晴らしい事例になった。
以下、『浦賀船渠六十年史』からの引用です。
さほど大きくない浦賀に同時期、二つの造船所が計画され、町では両社の競争激化を心配した。『明治28年3月6日の国民新聞は、その見出しに「浦賀に二大船渠、武士と町人の喧嘩」とうたっている。』
○両造船所の合併交渉と梅浦精一氏
野田正一談
浦賀造船が工事に取かって間もない頃、同町内に同一事業を経営せんとするが現われた。それは石川島造船所専務の梅浦精一氏であった。同氏は澁澤氏の勢力を背景として経営する計画であったから、塚原氏ははじめから将来の競争を憂慮し、予め合同経営するを可として渡邊治右衛門氏に説き、榎本氏からも澁澤氏に利害を説明し、塚原氏自身も梅浦氏に合併を勧告したが、梅浦氏は「君が 選定した内港を捨て、自分の予定した外港に築するなら応諾しょう」と主張し、遂に交渉不調に終ってしまった。 (碌碌産業株式会社取締役会長)
○受注競争 小川鐵五郎氏談
一体浦賀ではどの道こちらが損な立場にあったのだ。というのは、浦賀船渠は湾の奥、風波を避けた所にあるのに、 こちらの分工場は湾口にあって、どちらかといえば風当りも強い。それに両社が修繕料などで競争し出したとなると、より安い方にというのは人情である。そこで船主は先ず浦賀に入港すると、湾口の本社繫留浮標に繋船して、然る後に双方に修繕料の競争入札をさせる。何の事はない、人の軒先で、同じ物を売っている隣の値段を問合わせるようなもので、うまく行ってこちらの船渠に入ってくれた処で、結局殆ど実費で修繕するようなものであった。
(東京石川島造船所五十年史)
○合併の不成立 澁澤榮一談
彼我相前後して開業し、自然激甚な競争となったので、海軍の松本和民や石黒五十二技監などが、無益な競争をやめて合併してはと両社の間を斡旋され、こちらでは海軍当局の意響を尤もと思って直ちに承諾して株主総会の決議まで経たが、先方が不承知だったので合併は成立せず。
(東京石川島造船所五十年史)
○合併否決 野田正一談
石川島分工場の船渠は営業不振のため、数年ならずして自立しざる程の悲運に沈淪し、窮余、澁澤、梅浦両氏から、内港に合併されたいとしきりに懇請してやまなかったけれど、塚原社長はこれを拒絶したので、両氏は更に海軍艦政本部の井上、角田、松本、石黒、佐雙諸氏に依頼して合併を策し、艦政本部では双方の資産を帳簿上で調査して合併案を作り、双方とも株主総会を開いてこれを決すべしというので、やや圧迫的のやり方であったから、塚原社長は不快に思って、これを謝絶しようとしたが、会社内部にあっては、重役の渡邊治右衛門、井儀兵衛両氏が賛成の意見に傾いていたので、兎に角これを株主総会に問うこととし、海軍よりは佐雙佐仲氏が臨場して、開会してみると喧騒の中にこの合併案は否決されてしまった。
○買収の実行
その後梅浦精一氏は東京石川島造船所社長を辞任、代った元海軍主計平澤道次氏も合併を申出たが、 当社は最後までこれに応じなかった。石川島造船所はやむなく合併を断念して川間分工場全部の譲渡を提案した。 ここにおいて当社もその要求に応じ、折衝ののち同分工場の施設その他全部を百万円で買収し、そのうち九十万円は新たに発行する株券をもって充て、残り十万円を現金で支払うことに相互の了解が成立した。
当社では明治三十五年五月四日東京銀行集会所に臨時株主総会を開催し、 分工場買収の件と、買収に伴う増資、すなわち資本金百万円に九十万円を増加して、新資本金を百九十万円とする件を議題にのせ、これを可決した。
【追記】
浦賀船渠株式会社で建艦され、1937年6月10日、タイ王国海軍に就役した軍艦「メクロン」(または、メークロン)の現状を取材した記事です。
・竹内修『世界で2隻だけ現存「戦前日本の軍艦」タイでの“余生”とは? 会いに行ったら珍道中に』乗りものニュース、2023年3月26日
https://trafficnews.jp/post/125012/2
・『メークロン号という日本の軍艦を見学できるタイ海軍施設「プラジュンジョムクラオ要塞」』
https://runbkk.net/mae-klong/
表1.浦賀船渠の昭和11年のタイ向けの建造船記録
(『浦賀船渠60年史』1957建造船一覧から抜粋)
・向島の園遊会・・・戦友たちへの慰労事業
榎本は駐清全権公使時代、一人で一時帰国しました。当然のように連日、宴会に招待されました。その様子を明治17年3月13日付けの多津(たつ)宛ての書簡で次のように書きました。
『拙者帰京以来殆ど毎日招待を受候に付拙者よりも無拠[よんどころない]友人を招待いたし候事少からず既に去る八日杯には向嶋へ伊藤、井上、山縣、 芳川、 北垣、 沖、渋沢、大倉、山内等十数人を朝より招き候 この日参議三人の供廻りのみにても三十八人もこれあり其の外取等多分にて其入費は百円ばかりに相成り候併乍ら日本の料理は西洋料理に比すれば餘程安直に御座候』
いろいろな人たちから毎日宴会に招待された榎本ですが、一番お気に入りの宴会は箱館戦争の戦友達との宴会でした。
『・・・四五日前宮路[、]町野其の外数十人にて拙者を八百松江 招待し雨天にかわらず四拾人余の脱走連参会いたし誠に盛会にて愉快を極め ・・・』(同書簡から)
「八百松」は隅田川から旧中川に通じる掘割、北十間川(きたじっけんがわ)にかかる枕橋の上流側のたもとにあった、焼き鳥が有名な料亭です。枕橋の下流側は墨田区役所です。八百松は関東大震災で被害を受け、閉店しました。(引用元:「すみだ川のほとり23 枕橋の渡し」『すみだ区議会だより』33号、昭和58年)
『[八百松は]立派な江戸前の料亭だったので勝海舟、榎本武揚、山岡鉄舟などの政府要人で旧幕臣たちは自然此処を多く利用した。桜の墨堤は此処から始まる。酒の好きな榎本さんはよくこの八百松に来るらしく、自邸にも近いので此処から人力で帰り、三囲様[三囲神社]付近で車を下りて堤をぶらぶら歩くのが好きらしかった。』(引用元:鈴木鱸生『向島墨堤夜話』栞文庫、2009)
図2.榎本の向嶋の住居と焼き鳥「八百松」
榎本の向島別邸周辺に大倉喜八郎らの邸宅があり、神社仏閣も多数あり、花の季節になるとあちこちで園遊会が開催されました。その中でも、榎本邸には数十本の桜が咲き、特に盛大で近所の住民の間では有名でした。同上書著者の祖父は次のように榎本の園遊会の様子を伝えました。
『榎本邸の園遊会は変わっていた。 集まる者は総て旧幕臣達、会津、函館戦の生き残りばかりで年に一度此の園遊会に出て旧戰友達と戦話に昔をしのぶ楽しい一日だったのだと思う。 羽織、袴の古びたものを着、顔に刀傷のある者や片足不自由の者まで出席した。 座敷は皆庭に向けて開け放ち、庭には紅白の幕を張り、幾つもの模擬店が散在した。 寿司、天ぷら、焼き鳥等、庭の桜を食べたり飲んだりする。私はここに忍び込んだ。
正面大座敷の中央に榎本さん、隣に白い顎鬚の勝海舟、周囲は多数の人々が酒と肴で処狭しと並んでいた。 隣の座敷は此処も満員、大声で会津戦争や函館戦の話で夢中である。多くの向島芸者が裾を引いて酒や肴を運んでいた。』『向島墨堤夜話』p.33-34
年に一度の大園遊会と別に毎月何度か、榎本向島別邸にて戦友たちたちのために宴会を開催していました。日頃生活が苦しい戦友もときどき開催される宴会で十分飲み食いできるようにと考えた行為です。生活に困窮した戦友のために、一時凌ぎに無尽を行う例*もありました。宴会で互いの暮らしぶりなど情報交換し、支え合っていたと考えられます。
*前出『未公開書簡集』p.87
榎本の民間事業や資産運用で生まれた収入の一部は、戦友への慰労や生活支援に用いられました。
参考:榎本は箱館戦争の最高責任者であったことから、常に当時の部下たちの動静を把握し、様々な応援をし、また生活に困窮した者には衣食住の世話もした。加茂儀一『榎本武揚』中公文庫、昭和63年、p.420-422
・榎本武與と榎本武揚の石鹸製造業
日本油脂工業会『油脂工業史』(日本油脂工業会、1972)には、榎本兄弟の石鹸事業について次のように記録されています。
『江水舎(東京)[は] 明治八年榎本武与氏[武與、武揚の兄、天保3年‐明治33年]の創設によるが、榎本武揚が函館戦争で敗れ入獄中、オランダ書から石鹸、蠟燭、レモナーデ、焼酎などの製法を訳し、これらを活用して失職の家臣に授産の法を与えることを兄武与氏にすすめた。後にロシア公使として赴任した際、部下の大岡金太郎氏にロシアの石鹸事情を調べさせ、ココナッツ石鹸(ヤシ油石鹸)の製造秘法の伝習を100ルーブルで受けさせた。榎本武揚は明治一一年帰国したが、フランス製石鹸製造機械を持ち帰って兄武与氏に与え[明治12,3年ごろ]国産機械練り石鹸の第一号を製造した。』
【補足】獄中で原書を学んでいたのは榎本だけではありません。大鳥圭介も戦記、物理、化学関係の原書を読んで学んでいました。『偉人伝記をはじめブドウ酒製造法や石鹸製造法の洋書も読んでいる。』高橋哲郎『評伝 大鳥圭介』鹿島浩一、2008、p.189-190
さらに同書は、『江水舎は概説でふれたように明治の政治家榎本武揚の兄榎本武与氏の経営になり、武与氏は長崎造船所[横須賀造船所の誤りと考えられる]で石鹸製造法を会得したと思われるが、弟の武揚が五稜郭で敗北したのち、子弟に職を与えるため兄とともに石鹸工場を創立した。のちに武揚は駐露公使として赴任後、ロシアの石鹸技術とフランス製のロール練り機を持ち帰って兄に提供した。江水舎は、それによりわが国のロール機械練り石鹸メーカーの祖となり、 「フラ ンス流石鹸製造所江水舎」といわれた。江水舎榎本氏は、従来の石鹸製法とは全く異質の新しい[冷製]石鹸製法技術を案出、その製造期間の短縮と経費節減は、石鹸企業に利益向上をもたらした。』と、江水舎の技術を高く評価しています。江水舎は明治12年に朝鮮国へ石鹸の輸出を開始しています。その後、粗悪なコピー品が市場に氾濫し、消費者から忌避されることになり、明治30年ごろ*にかけて、江水舎は廃業したと考えられています。
*榎本武與が明治33年7月13日に死去した事情も関係したと考えられる。
1918.7.16(大正7)の国民新聞の記事、『「石鹸の由来と製法最初日本へ来たのは遣唐使の土産」工学士 大橋光吉氏談』では江水舎が創業した当時の様子を次のように伝えています。
『故榎本武揚子が露国から機械を持ち帰り江水舎を組織した[明治]十年頃には十二三の工場が出来たが当時の製造方法は頗る幼稚であったが苛性曹達を輸入し脂肪も牛の外豚其の他の獣脂椰子油棉実油[めんじつゆ]などの植物性油を使用して稍面目を一新し内地製造高も逐年増加した』
(引用 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00212542&TYPE=HTML_FILE&POS=1)
明治16年5月6日付け、多津から榎本の姉、観月(すずきらく)宛ての書簡に江水舎の事業について触れられています。 (『未公開書簡集』p.87)
『兼て江水社江はシャボン製造の機械一式とガルフハニイの機械[メッキ装置]一さい同所製造場江参り居り候まゝ岩崎引払ひ後如何相成り候哉 江水社江預け置き候機械は川村久と源太郎の両人がよく心得居り候間同所の都合御見計ひにて諸道具は留守宅へ御引取り下され候てもよろしく候間御含みまでに申上げ置き候』
榎本が駐露公司時代に大岡金太郎を使って盛んに様々な製造技術の秘技(ノウハウ*²)を吸収させました。榎本が持ち帰った石鹸製造装置とメッキ装置*¹を兄の武與の江水舎におかしてもらい、箱館戦争で部下だった者に職を用意したことが分かります。
*¹ ガルバニーはいろいろな装置の名称に使われるが、ここの「ガルフハニイの機械」はメッキ装置を指す。
*² 参照 榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-2-2-b)http://www.johoyatai.com/3377
・南方先覚志士と南洋の榎本武揚所有地
明治11年10月、榎本がロシアから帰国すると、榎本の南洋ラドローン群島(マリアナ諸島)購入建議が政府でペンディングされ、北ボルネオ買収建議が伊藤博文から反対を受けたことが国内の有志たちに知れ渡ることとなり、有志たちは南洋諸島に向けて行動を起こしました。
1899年(明治32年)、ドイツはスペイン領ラドローン群島をスペインから買い取り、ただちにコプラ*¹の生産と燐鉱の資源開発に取り組みました。1881年(明治14年)3月、初代駐日英国公使のオールコックが先導して北ボルネオの植民地化を準備し、同年11月、北ボルネオを統治する勅許会社*²、英領北ボルネオ会社が設立され、北ボルネオの開発に取りかかりました。
*¹・高村聡史『榎本武揚の植民構想と南洋群島買収建議』1999年3月
・コプラはココヤシの果実を完熟させ乾燥させたもの。コプラから石けんやマーガリンを作り、その絞り粕は家畜の飼料になった。コトバンクから引用。
*²(1)オールコック著、山口光朔訳『大君の都 下』岩波文庫424-3、1962、p.417-418
(2)博士論文 都築一子 [著]『北ボルネオ会社統治時代の開発と熱帯林破壊の研究 : マレーシア・サバ州における熱帯林破壊の起源と構造化』1998、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3156772
【田中鎮彦・・・榎本武揚所有地】
第一次世界大戦(1914、大3)が始まると、日本は日英同盟に基づきドイツに対し宣戦布告し、日本の陸海軍は山東半島や南洋諸島で戦いました。日独戦争と呼んでいます。榎本の次男、春之助は、「第三艦隊の司令長官、吉田曽次郎が帰国すると春之助を訪ねてきて、『オイ君、驚いたことがあったよ。トラック島に上陸したら『榎本武揚所有地』という杭が立っていたよ』」と語りました。
トラック諸島で戦った海軍軍人は、吉田曽次郎ではなく栃内曽次郎*¹でした。さらに、当時は第三艦隊長ではなく第三戦隊長でした。1978年の春之助の回顧談*²なので、記憶違いもあるでしょう。
*¹とちないそうじろう、1866-1932、盛岡市出身。大正9年に海軍大将、13年退役。昭和7年勅選貴院議員。(参考:コトバンク)
*²金沢誠、他編「榎本春之助との対話」『華族−明治百年の側面史』伊沢金吾(北洋社刊)、1978、p.61-62
榎本や多津の手紙に度々登場する、榎本の姉、観月(すずきろく)については、榎本武揚が亡くなった後、『それから少しも食事しないで、水ばかり飲んでいた。自分だけ生きてもしようがないと思ったんでしょう。親父が死んで二週間して亡くなりました。この姉は、父が函館戦争のあと、牢に入っていたとき、いろいろ世話してくれた人です。』と語っている。(p.35)また、伊藤博文とは仲がよく酒仲間で、向嶋でよく一緒に飲んでいた。(p.48)
春之助によれば、杭を立てた人物は、田中鎮彦です。田中は榎本家に大勢いた庭番か書生の一人で、『[榎本が]文部大臣のとき、逓信省の電機学校に入ったんですが、そこをやめてから南洋のトラック島に渡りまして、・・・』酋長にまでなり、時々帰国するとトラック島の武器などお土産に持ってきたそうです。
田中はトラック島に移住した経緯を田中鎮彦『中部カロリン島語案内』(寳文館、大正10) の中で、次のように説明しています。
『榎本子[榎本武揚子爵]の食客であった當時少壮血気な私は子爵の國家政策及其頃同子の邸に出入した種々毛色の変わった浪人、豪傑肌の人々に何時となしに尠[すくな]からぬ感化を受け、遂に明治二十三年の六月東京を脱走し帆船大海丸に搭じて先づ小笠原島に航し父島時雨山に入って開墾に従事すること半歳同年末恒信会社*の懐遠丸に便乗しマリヤナのサイパン、グワムを振り出しに[明治24年、]カロリン群島に着トラック島に日本人最初の足跡を印し、夫から前後七年間に赤道以南・・・』
田中の話から、榎本宅の雰囲気が伝わってきます。また、「東京を脱走し・・・」という語り口には榎本を真似たのでしょうか。トラック島在留の日本人は日本人会を結成し、田中は幹事長になりました。田中達は様々な困難に遭遇しながら、現地住民に溶け込み、それぞれが住む島のリーダーになるという目的達成に向けて活動を続けました。日独戦争の結果、南洋群島が日本領になったことを機に田中は、『中部カロリン島語案内』を海軍向けに作成、出版しました。
『中部カロリン島語案内』の最終章である「第四章渡航者の心得」の第一節は「言語についての注意」、第二節は「土人間の礼儀」、第三節は「風俗習慣を尊重せよ」について論じています。ペリーやオールコック、パークスたちとは全く違う現地へのアプローチです。自分たち文明社会から来た者が、未開で野蛮[非キリスト教徒]なおまえらを指導してやる、という姿勢ではありません。あくまでも現地人を尊重し、原住民の共感や了解を得ての事業の推進やリーダーシップを発揮した殖民事業でした。
写真5.のタイトルは、『大正六年七月廿三日南洋観光団 トラック一行七名ト神戸ニ於テ記念撮影』で、『前列、和装ノ男性ハ田中鎭彦、詰襟洋風ヲ着タル人ハ南洋貿易会社員亀山氏』と書かれています。
写真5. 日本へ観光に招待されたトラック島一行
(『中部カロリン島語案内』より引用)
【補足】
1.郷 隆『南洋貿易五十年史』(南洋貿易株式会社、昭和17年)では、田中は恒信社の社員と記されている。
2.明治26年5月25日付け時事新報の記事『南陽トラック島の王子来朝』によると、貿易船、第一天祐丸(船主、杉野宗太郎) は、3月1日に横浜港を出版し、南洋群島へ向かい、その後、トラック島を訪れ、その際、トラック島の人々が天祐丸の乗組員らを異国の人として侮辱し、しかし、日本がどのような国かにも関心があるので、王子(25、6歳)と従者として王妃の弟(16、7歳)を日本の国情を知ってもらうために日本へ招待し、天祐丸は二人を乗せトラック島を5月5日に出帆し、22日に横浜に帰港した。二人はあまり上陸したがらなかったという。
【南洋方面に出でゝ活躍した志士浪人】
以下引用文は、昭和11年に発刊された、黒龍会の『東亜先覚士記伝 (下)』*で紹介された、榎本の小伝の一部です。
『・・・東亞の諸問題に對して有志の士と共に力を盡[つく]し、力を外に向つて発展せしむる爲めに終始熱意を注いで倦[う]まなかつた。その人と爲り豁達[かったつ]の氣象に富み、稜々[りょうりょう]たる侠骨老に至つて衰へざるものあり、有爲[ゆうい]の士の来つて援を乞ふものあれば進んで斡旋することを辞せず、明治時代東亜並に南洋方面に出でゝ活躍した志士浪人中には彼の門下より出でたる者及び彼の斡旋後援によって志を伸ばすを得た者が尠[すくな]くない。 其他社會公共事業の方面にも力を盡し、その斡旋甚だ親切を極めたので之を徳とする者も多かった。』
引用元: 黒龍会編集『東亜先覚士記伝 (下)』原書房、昭和49年、復刻原本=昭和11年、p.580
南洋方面に出て活躍した榎本の門下生の中で、代表的な人物は、横尾東作です。
『榎本武揚と国利民福 Ⅱ.産業技術立国(中編)』で触れましたが、明治8年6月以前と推定される時期*¹に、榎本は『日本南方ニ幾那茄琲及談婆姑植付之説 』(論説:日本の南方にキナ、コーヒー、たばこを植え付ける件)と題した建議をしました。キニーネの樹皮はあらゆる熱病に効果があることは知られているので、キニーネの樹の国内移植を主とした建議ですが、コーヒー、煙草も加えて日本の南方の地域での栽培が良いだろう、例えば、「大隈・薩摩や伊豆七島などでは栽培できそうなので、琉球諸島や小笠原ではなお可能性が高いと思う」という箇所が有りました。榎本のこの建議も一因となって岩倉に小笠原島の回収問題を再考させることとなり*²、翌明治9年9月に小笠原島は内務省管轄となり、10月に日本の領有となりました。
そして、小笠原島のさらにその南、父島の南方、約280kmに位置する硫黄島*³の領有化のきっかけを作った人物が、横尾東作でした。次回は、横尾東作を紹介しながら、横尾に映し出された榎本の殖民の狙いを考えてみます。
*¹南雲清二、伊澤一男『キナの国内栽培に関する史的研究(第3報)榎本武揚によるキナ導入の建議書について』薬学雑誌45(2)、p.121、2010
*²高村聡史『榎本武揚の植民構想と南洋群島買収建議』国史学会 編 (167), 77-110, 1999-03、p.88-89
岩倉具視は榎本に、榎本の建議は『・・・国益人民の為に・・・』急いで対応すると回答してきた。
*³小笠原村『硫黄島開拓碑文』https://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/ioutou_index/
(続く)
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