復幸をテーマとした映画「サンマとカタール」-東北の女川-
復幸をテーマとした映画「サンマとカタール」
-女川つながる人々-
この4月14日・16日と、震度7を二度も記録した熊本地震は、その後も続いており、大変心配です。心から御見舞申し上げます。そして早期の収束と復旧・復興を念じております。
さて、表題の映画は、五年前の3月11日に起きた東日本大震災の被災地の一、宮城県女川町の果敢な復興の取り組みに関わるドキュメンタリータッチの作品です。其処では、敢えて「復興」と言わず、町の人によっても「復幸」と言う言葉が使われていましたが、その思いが良く分かりました。なぜか・・・、 それは御自身で映画を御覧に御覧になって下さる事をお薦めします。(私が見たのは、新聞記載の東京有楽町のヒューマントラストと言う劇場でしたが、その後の日時についてはインターネットで御確認方、よろしくと存じます。)
作品の「サンマとカタール」 -女川つながる人々- のプロデューサー
ところで、この映画のプロデューサーの「益田祐美子さん」によれば、映画企画の切っ掛けは、三年前の12月のさる「打ち上げの会」でお互いが出逢った事からと申します。それは、各々受章の祝勝の集いで隣合わせとなった人々が、たまたま「日本デザイン振興会」のグッドデザイン賞を受けた方々であったと言うのです。ともに大変盛り上がっていた由、朝鮮通信使を扱う日韓共同制作の映画で授賞していた益田さんなどは、早速ご挨拶し、お互いのトロフィーを見せ合い、その場で女川町のお話を聴きました。
感動した益田さんは、直ぐに行動を起こし、表題の映画の企画を立ち上げたのです。因みに、このプロデューサーの「益田祐美子さん」とは、「株式会社平成プロジェクトの代表取締役社長」で在り、前述の受章で分かる如く、映画制作などで既に多くの実績の
ある人です。私はさる映画の上映会で知り合ったのですが、その企画力、行動力には驚いて参りました。今回の女川町に係る 「サンマとカタール」 と言う映画を見ようと思ったのも、元々からの関心に加え、この人のプロデュースに係る作品と言う事が分かったからでもあります。以下、幾つか印象に残った事を記します。
あらためて知る、恐ろしい被害
あの大震災の広範甚大さと深刻さは良く知られています。その中でも、この作品で何度も言われる女川町の被害は実に凄まじく、死者と認定死亡者(行方不明者で死亡届を受理された者)はほぼ九百名に達し、発災時人口約一万人の一割近くに及んだと言います。何と十人に一人が亡くなっているのです。人口は避難者も多く出て被災後大幅に減少、この三月には七千名を切っている由です。建物は約八割が損壊、流出したと言います。その大部分は巨大津波に因るものでしょう。将に生き残ったのが不思議、壊れたり、失われ無かったのが信じられないと言った状況でした。
作品には「回収された写真やアルバムなど」の最後の展示会が開かれている場面がありましたが、「ひょっとして一枚でもあれば」と改めて見に行った人が「見事なくらい、無い」と言っていたのが印象的でした。この展示により、これを機に受け取りの無かった多くの物は、全部焼却するとのことでした。これで、「過去とは決別、復興・復幸に向け、全力を注ぐと言う趣旨」との由です。
カタールフレンド基金からの寄付と、多機能水産加工施設(MASKAR)の建設
東日本大震災に対し、世界各国・各地から多くの支援が寄せられました。その中で、女川と御縁が繋がったのは、中東の産油国「カタール」の1億ドル(約百億円)の基金から、巨額の寄付が寄せられることになったことでした。なぜ、「カタールと女川が思った疑問」は、これで解けて来ました。その額は日本円に換算して約二十億円に達する由、しかもそれは、巨大な冷凍・冷蔵機能を中心とする水産加工施設の整備が眼目でした。
斯くて、次の「何故」が出て来ます。砂漠の広がる、ペルシャ湾岸の、アラブの一大産油国「カタール」が何故漁業施設を、日本の大震災からの復興のため寄付するのか、それは同国が、石油・天然ガスの産出に恵まれるようになる前、実は漁業が盛んで、国の中心産業であり、今も漁港と市場が賑わっていると言う事から来る様なのです。この映画では、カタールの首都「ドーハ」の魚市場を女川の関係者が訪れるシーンが写っていました。私も日独音楽交流の嚆矢で経験がありますが、斯く縁は重なって来るのですね。斯くてカタールの寄付のお話は、御縁と関係者の努力で実って行きました。
さて、ここに「マスカー」とは、アラビア語で「カタールで行われていた伝統的漁法を指す」由です。早速、女川では復興の決め手として、このカタールのアラビア語「マスカー」と名付けた漁業施設を、女川の名を高からしめてきたサンマ漁が最盛期を迎える平成24年(2012)年10月に完成させるべく取り掛かったのです。
中心となる巨大な冷凍・冷蔵施設は二階に作られ、一階の各施設は主にピロッティ方式で柱により、津波が襲来しても抜けるように工夫され、三階は震災時の避難機能に備えると屋上と言う構成です。約八千平方メートルの敷地に建てられたMASKARは、建築面積三千平方メートル強、延べ床面積約七千平方メートルの鉄骨三階建てで、サンマを水揚げしてから出荷するまでの冷凍、保管といった諸工程は、これまで別々の施設・設備で行われてきたものMASKARにより、一箇所で一挙に一貫して出来る施設として出来上がりました。素晴らしいですね。
見付かった店の看板
ここで、一つの象徴的な事が起きます。或る地元の会社で、父と長兄が亡くなる中、在京の次兄の女川への帰還が家族で検討されているところ、実家の水産商店の看板が見付かったのです。それを発見した三兄の阿部淳さんは、或る運命を感じました。その発見は、「自分こそが、廃業になるかも知れない家業を立て直すように」と天から言われているように思えたというのです。今は、母が社長でまだまだ元気だが、何れという時が来るやも知れない中、彼は思いきった決断をします。大災害に見舞われた今、故郷を離れサラリーマンをしている勤め先を辞め、お母さんを助けて実家の水産加工業に懸かることにしたのです。こうした事は各地各家であったケースでしょう。
更に、彼は実家の仕事だけでなく、また震災前からの秋刀魚祭への参加だけで無く、いろんな取組みを始めます。以降毎年三月に開催されるようになった「復幸祭」の言い出しっぺとなり、遂にはその実行委員長となります。いろんな事のまとめ役、推進役となって行きます。目出度い結婚式まで取り込まれます。
あれこれのイベントが考えられ、実行されていくのです
そのひとつが、町の東端の港のある辺りから、高台に向かって一気に駆けるレースでした。何と、その出発の合図が「逃げろ!」でした。津波で一斉に避難する駆けっこです。
趣旨に合う当意即妙のアイデアでした。その様子がしっかりと映されていましたが、そのレースはこれから毎年繰り返されるので在り、避難訓練ともなるのです。
この前提として、女川では防潮堤を造らないことがありました。港の岸壁から、そのままま町が始まるのです。その高さは件のマスカー始め、漁港の諸施設みな同じです。
そこから、内陸に入ったやや高い所に、JR女川線の女川駅が再建されました。高目で津波に対する安全度を向上させたのです。ディーゼル列車でしたが、みんな電車と呼んでいました。我が町取手の関鉄常総線と同じでして、その方が言い易いのでしょう。
そこから西の更に高いところに、復興住宅街が造成されつつあります。人名優先、住まいは一段と安全度を高めたのです。
こうした様子は、様々な角度や高さから、例のドローンを駆使して撮影されていました。しかも、定点観測の方法で採り続けていましたから、同じ位置から見る変化が実に良く分かるのです。この器財は各所で使われたため、各々のシーンか将にドローンの有用性を生かした優れた作品となっていました。
なぜ、女川と言うのか?
映画は最後まで地名が「女川」と呼ばれる分けを語ってくれませんでした。それにしても「女の川とは、これ如何に?」
其処で、歴史に当たって見ました。すると、平安時代の中期に「安倍貞任」という武将がこの地方に居た由、そう言えば、習ったことのある名前ですね。生誕は寛仁3年(1019)頃、没年は康平5年(1062)との事です。
ある時、安倍貞任は源氏の軍勢と戦うこととなりました。そして女を俱にしていては危ないと言うので、合戦の地より離して、さる小川の辺りに身を隠させ、避難させたと言う事から、その辺り一帯を、「女川」と呼ぶようになったのが始まりと言うのです。
この地には女川原子力発電所が在り、東日本大震災の時には事故に至らず、結構な数の住民が避難したこと
この女川町と隣の石巻市には、合計で約二百万KW、三機から成る大きな原子力発電所が在ります。昭和59年から平成14年にかけて順次竣功し、稼動してきました。そして、東日本大震災による地震と大津波の襲来を受けました。
その時、震度計は震度6弱を観測し、定期点検中であった1号機はその外部電源が変圧器の故障の為使用不能となり、その復旧までの間、非常用ディーゼル発電機で11時間冷却を行った由ですが、他方稼働中の2号機・3号機は自動停止し、何れも外部電源が喪失することは在りませんでした。
一方、最大津波は約13メートルの高さで到達したものの、発電所は14.8mの場所に設置してあったため、結局直接の津波到達は無く、事故などは回避されたとのことです。この高さでの設置は、計画段階で津波対策の安全度の向上のため決められたと聞きます。
斯くて、この地ではかの大震災による原子力発電所の事故は起きませんでした。映画はこの事を淡淡と伝えています。(現在、三機とも定期検査中として停止したままで稼動していません。)
更に住民の当原子力発電所への避難のことも映画では取り扱っていました。はそのとき、人々が「ここより安全な所は無い」と語っているのが印象的でした。発電所側は「何かとお世話になっていますから」と答えているのが聞こえて来ました。
ただ、本来は、原子炉等規制法により原発敷地内に一般住民が許可なく入ることが出来ず、当然、一般住民の避難用に指定されている建物も無かったのですが、震災発生後、広報施設の「女川原子力PRセンター」に多数の被災者が自主的に避難して来ましたので、敷地内の体育館等を開放して最大約360名を収容し、食事等の提供がなされたと言います。この避難の事は初めて聴くお話でした。
この他、この作品は話題がいっぱいで、かの大災害の実相を良く捉えています。
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