榎本武揚と国利民福 Ⅳ. 最終編 序章
序章 近江商人の国益民福から明治40年国防方針の国家目標―国利民福へ
(アイキャッチ画像は「東近江市近江商人博物館」のホームページから引用)
・はじめに
榎本は明治7年(1875年)にペテルブルクに向け出立した後、翌年樺太千島交換条約が締結されたとき、国内の新聞紙上を賑わせましたが、締結から3年過ぎての帰国のためか、静かな帰国でした。
榎本が帰国した明治11年(1878年)は、日本のその後の深刻な運命を決めた重大な年でした。10月21日に榎本が横浜港に到着してまもなく、12月5日に参謀本部条例が制定されました。この結果、参謀局が陸軍省から独立し、天皇直轄の組織-参謀本部になり、軍事命令は参謀本部から発令されることになりました。この結果、政府から独立した参謀本部による統帥権が確立しました。
50年後の昭和3年(1928年)6月4日、関東軍(当初、遼東半島と満鉄附属地を守備していた陸軍の一組織)が仕組んだ謀略事件、張作霖爆殺事件が起きました。これを機に昭和6年 (1931年)9月18日に関東軍が単独で満州事変を起こしました。その後、日本はアメリカを代表とする列強国から経済封鎖を受け、日本政府(御前会議)は米英蘭との戦争を選び、昭和16年(1941年)12月8日に真珠湾攻撃を実行しました。
明治維新後、日本政府の国家スローガンは「富国強兵」だと言われています。しかし、樺太千島交換条約締結に向けてロシアと交渉中、榎本がペテルブルクから本省へ送った報告書には、「富国強兵の四文字大事なれど・・」と言いつつ、「国利」を思案中だと書いたように、日本の樺太領有権を日本の軍事的メリットと交換するのでは無く、経済的メリットに基づき交換をしようと努力していました。
明治政府のスローガンは「富国強兵」だったとされていますが、実は「富国強兵」をスローガンとしていない人々がいました。
・「国利民福」か「民利山分け」か
渋沢栄一による、明治7年に制定された株式取引所条例により、榎本が帰国する明治11年5月に東京株式取引所が創立され、6月1日に初立会がありました。同年8月*、岩崎彌太郎は渋沢を向島の料亭に誘いました。宴席には十数人もの芸者を呼んでありました。一通り食事などが済み、岩崎が渋沢に口を切りました。
『岩崎はこれからの事業はどう経営するべきだろうかと渋沢にたずねた。むろん榮一は持論の「合本法」をもちだした。事業は国利民福を目標にするべきものだから、大衆の資金を集めて賢明に運営し、利益を大衆に戻さなければならないという説だ。すると岩崎はそれに反対して、合本法などは結局、船頭多くして船山に登るの類だ。事業は才能ある人物が独占的に経営しない限りうまくゆくものではないという。そして「キミとボクが固く手を握り合って仕事をすれば、日本の実業界は思いのままになる。堅苦しい理屈を抜きにして、これから二人で協力してやろうじゃないか」』
(澁澤秀雄『澁澤榮一』渋沢青淵記念財団竜門社, 1956 から引用)
* デジタル版『渋沢栄一伝記資料』公益財産法人渋沢栄一記念財団、青淵先生伝初稿 第二十五章・第十三ー十六頁「先生と岩崎弥太郎との軋轢」 (DK080001k-0015) 第8巻 p.17では、明治13年8月と記されている。
この後、意見が正反対の二人は猛烈な論争を始め、ついに、渋沢は席を立って帰ってしまいました。そして、渋沢と岩崎の代理戦争とも言える三井と三菱の海上輸送の覇権をめぐる熾烈極める戦いの火ぶたが切って落とされました。
残念ながら、渋沢が書き残したものの中に「国利民福」は見出せません。書くまでもない常識的な用語だったのでしょう。この戦いは明治18年まで続きました。この戦いはこの頃の政府内での派閥抗争の一面を示しました。当然、榎本も巻き込まれていました。
・滋賀県、近江商人の「国益民福」
渋沢も使ったとされる「国利民福」は、「国益民福」とも言われました。
本稿の第一稿、『榎本武揚と国利民福 Ⅰ.南方経営』(2019.11.25)で、大井健太郎が訳した明治6年(1873年)10月発刊の『仏国政典』の序文で「国益民福」という言葉が使われていたことを紹介しましたが、当時、「国益民福」が自由民権運動家だけが用いた用語では無いことを示す資料があります。
『国益民福』は「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の『三方よし』*1で有名な経営理念をもつ近江商人の根拠地、滋賀県の行政文書に登場します。滋賀県は平成27年に『滋賀の商業と近江商人』という展示会*2を開催しました。この展示のテーマは、近江商人の活動エリアは近江以外なので、地元の発展に興味を持たなかったという批判がありますが、しかし、実は近江商人も地元の発展のために高い倫理性をもって社会貢献を行っていたというものです。
*1 『三方よし』 https://e-omi-muse.com/omishounin/about6.html
*2 展示紹介サイト https://www.pref.shiga.lg.jp/kenseishiryo/kakonotenjishiryo/10800.html
そして、展示資料の中に「『勧業社規則』明治5年(1872)4月」という資料があり、そこに、『「国益民福を為す者」への融資を目的とした結社の規則』という紹介と解説がありました。そこで、滋賀県立公文書館にさらに詳しく教えていただけるようお願いしたところ、勧業社規則の第五則に「国益民福を為す者」について記述されていて、その箇所を教えていただきました。
『 第五則
此社ハ諸方の財本を預り之を彼の物産を興隆し山野を開墾し水理を通し新器械を製造し
内外商賈(しょうこ)を為す等都て(すべて)国益民福を為す者に貸し附
其利金の内を以預ケ主へ与へ残る利金を以窮民授産の資本と為す
則一挙にして三ツの用を為す其大略左の如し(以下略)』
この第五則では、いろいろな人たちから財産や資本を預かり、その資金で産業全般の活動の勢いを盛んにし、商売をするすべての国益民福を為す(実現する)人々に貸し付け、その結果得られた利益の分配金を出資者へ与え、さらには、失業者には手に職が就くよう職業訓練をする資金に回すといった意味が書かれていました。
「三方よし」は、後世の研究者が、近江商人の活動や経営理念を研究した結果たどりついた結論でした。この「一挙で三つの用を為す」という言葉にその心を感じさせられます。
多くの人々から集めた財産や資金から、国益民福を実現する事業家に資金を提供することは、事業を盛んにして生まれた利益を、その生み出した事業家と出資者に分配するだけでなく、さらに地域で生活に困窮している人々に職業訓練を与え、その結果、困窮していた人々が事業に参加し、さらに事業を活発化し、地域社会全体の幸福を増進するという公益性、公共性のある方針でした。
誰かが独り勝ちする、誰かが儲け、其の代り誰かが損をするというような低次元の経営でなく、高い倫理性と社会貢献を目指した高い道徳的なこの方針は、さすが近江商人ならではのことです。
・18世紀半ば以降に登場した「富国強兵」論と「富国安民」論
「富国強兵」論は中国の春秋戦国時代(紀元前770-紀元前221)に盛んに論じられていました。江戸時代の18世紀の半ば頃、太宰春台(1680-1747、儒学者、信州飯田出身)が、幕藩政治を論ずる中、『富国強兵』論を主張しました。日本で商品の製造と取引が盛んになってきた時代を背景にして太宰春台の富国強兵論は登場しました。その後、兵学者が盛んに富国強兵を目指した積極的な経済策を論じました。その結果、農政や民政の役人に農政方針の前段(導入部)に用いられる例が出ました。
しかし、18世紀末、19世紀初めに朱子学者から「富国強兵」論への批判が高まりました。朱子学者は、富国強兵論では、領主が殖産政策に取り組むことを当然としながら、新規の運上課金(金銭で支払う租税)や領主による直接専売は、人民に対する租税の過酷な取り立てとなり、人民は利を失い、官は不益になり、さらには規範意識や秩序の混乱も起きるなどと批判しました。
「富国強兵」論批判の背景には『民利』の議論がありました。この議論は、「富国強兵」論は領民の経済的困窮ばかりか領民のモラル破壊、社会の混乱が生じるという批判から、経済政策が直接領主の「利」にならなくても、民の「利」になれば、「御国益」になるという主旨でした。「富国」は重要な政治課題でしたが、民百姓を富ますことが国を富ますという考えかたで、「富国強兵」を批判するも「富国」追求は肯定されていました。
そこで、民百姓を富ますことで、国を富ますことになるという考え方が、19世紀初めに広がり、『富国安民』が主要な政治理念となりました。その後、二宮尊徳(1787-1856)の『報徳』*も登場しましたし、幕府民政では『富国安民』が理念となり、幕藩政治の主要な目標となりました。「富国安民」は「養民富国」とも言われました。
*道徳と経済の調和を説き、困窮する農民を救済する(公益社団法人 大日本報徳社のホームページから引用した)
また、岡田藩士(岡山県)の名臣と言われている浦池九淵(1759-1836)は、「領主の為にすることは私的なことで、民の為にすることは公的なことである」という見解を示しました。
以上は、小関悠一郎『江戸時代の「富国強兵」論と「民利」の思想』(日本歴史学会、2018)を参照、抜粋、引用しました。
1862年(文久2年)、榎本らと共にオランダ留学をした西周が、日本を出発する日、洋書調所の恐らく上司から、「建艦だけでなくいろいろ教えてもらいなさい、『国治め民富ます道をさへに学ひよ』*と言われた」と西周は『和蘭紀行』に記しました。少なくともこの時点で、黒船来航、日本の開国があって尚、幕府の役人や管理職は、「民利」や「富国安民」を重要な政策であると考えていました。
*「さへに」は古語で添加を意味する。…までも、そのうえ…まで。
・明治時代の「国利民福」の盛り上がり
榎本が演説の中で「国利民福」を発言し始めた時期は、明治25年の気象学会会頭演説、翌年の殖民協会会頭演説です。この時期に、日清戦争の前年、明治26年10月12日発行の愛花情史編『粋人遊びの友』の「滑稽祝辞及び演説」の章に「其の一、 演題 国利民福奨励会社の設立を望む」という文章があります。世間に「国利民福」という言葉が飛び交っている様子を面白おかしく書いた文章です。
『底(そこ)で以て私の様な立派な人間で有っても口に国利民福を云わない節は、彼奴(きゃつ)は人間でないからと云って世間の人が交際をしませぬ、其代り鸚鵡(おうむ)でも国利民福をさえ云えば此方は下にも置けない方だと云って直様国会の議員に選挙します、個様な風に当世の人に国利を漬物の重石よりも重んじ民福をお釈迦様より尊んで居る所を見ると楠正成が裸足で逃げ出す程の忠義者に見えますが、実際は決して左様な訳ではなく、迷信者の念仏、讃美歌と同じ事で只口先にやかましく云うばかりとは何と嘆かわしい事では有りませんか、・・・』
この後、国利民福を言いながら私欲を擅(ほしい)ままにするような人間ばかりでは困るので、心から国利民福を思わせる妙案(奨励法)を紹介すると続き、さらに国利民福をちゃかします。この文章からいかに世間のあちこちで国利民福が口にされていたのか、想像されます。
明治初めの「国益民福」が明治10年代に「国利民福」となり、20年代中頃には日本中で用いられるようになりました。「富国強兵」に対し、明治26年には猫も杓子も国利民福を唱えるようだとまで言われました。まさに明治27年の日清戦争の前年の様子です。「富国強兵」を唱える者も「国利民福」を唱える者もいたのでした。
・孫文の『利国益民』(国利民益)
(本項は8月15日に書き落としたため、8月18日に追記しました)
孫文*1は、「孙中山故居紀念館」(日本語訳名は「孫文旧居記念館」)のWEBサイト、『興中会章程』*2のページに提示された「興中会章程 三」に次の一文が含まれています。
『 三、志向宜定也 本会拟办之事,务要利国益民者方能举行。・・・』(文字は簡体字のまま)
この一文に「利国益民」という文字が見られ、日本語で言うなら「国利民益」です。
このサイトで示された「興中会章程」は1895年(明治28)2月21日改定と記録されています。日本政府の外務省調査部が昭和10年に発行した『孫文主義』では、この箇所を『本会に於いて為さんとする所は必ず国利民福を念とするものにして、・・・』と訳しています。
「利国益民」が儒者の言葉に由来しているのか、それとも明治十年代にすでに日本で使われていた「国利民福」が清国に伝わり、改めて中国語に取り込まれたものかは判然としません。孫文は日本人の活動家との交流が深かったため、「国利民福」が孫文に伝えられた可能性がありますし、江戸時代に日本の儒者が議論した「民利」や「富国安民」という言葉の起源は中国側に起源があったのかもしれません。
*1 1866-1925、清末民国初期の革命指導者、中国での共和制の創始者、関東省中山県の出身。
*2 1894年(明治27年)に孫文がハワイで結成した革命団体。清(しん)末の中国で最初の近代的な秘密政治結社。
・明治40年国防方針の国家目標に「国利民福」の増進を盛り込む
日露戦争を勝利で終えた軍部は、明治40年に『国防方針』を作成し、その冒頭に「国家目標は国利民福の推進」であると書きました。国防策作成は陸軍側で始まり、海軍に持ち掛けられて完成しました。そして、軍部は国家目標に富国強兵では無く、「国利民福の増進」を盛り込みました。その後改定された国防方針の国家目標にも盛り込まれ続けました。
国防方針の基本方針第一項には、概ね「帝国の政策は明治の初めに定めた開国進取の国是により、今後は、国権の拡張を謀り国利民福の増進に努める。そのためには世界の多方面で経営をするが、中でも日露戦争で大変な数の人命と財産を投入して得た満洲、韓国での利権と、アジアの南方並びに太平洋側に伸びる民力の発展を擁護当然ながら拡張することが帝国施政の大方針・・・」(著者要約)と書かれています。
ここで、北進の利権、南進、太平洋の彼岸での民力の発展と書かれています。よく北進、南進という表現がされますが、そこには太平洋での民間活動も含まれていたことが分かります。南進とはアジアの南方ですから、遼東半島から福建省、ベトナム、シンガポール、インドネシアなどを指すと考えられます。太平洋の彼岸とは南洋群島は当然、ニューギニア、オーストラリアを含むことは勿論、ハワイやアメリカ大陸への移民、殖民も含まれると考えられます。
しかし、この国防方針では、国家目標を掲げた後は、戦争が議論されましたが、最後に戦争の議論がどのように国利民福の増進に帰結するのか明示されていません。企業の方針書なら失格です。つまり、この方針書は、前項で紹介した「其の一、 演題 国利民福奨励会社の設立を望む」に書かれているように、「国利民福を擔(かつ)ぎ出して私欲を擅(ほしい)ままにする・・・」といった類の文章ではないかという疑問があります。
・まとめ
江戸時代に「富国強兵」論に対し「富国安民」論が主張されました。徳川幕府を始め幕藩体制下では「富国安民」が施政方針となっていきました。当然、榎本もこの考え方が頭に入っていると言えます。そして、明治になると公文書に「国益民福」という言葉が登場し、その後、人々は口々に「国利民福」を唱えるようになりました。明治時代は「富国強兵」が国家スローガンだったとされますが、国民の間では「国利民福」が重視されました。但し、枕言葉に「国利民福」を置けば何とでも言えるような空気も国中にありました。
次章から、帰国した榎本のグレートゲームでのプレーぶりを見てみます。
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「強兵」と「安民」は江戸時代からの対立概念だったのですね。明治以来の日本がめざした「強兵」の結末を榎本ならどう評価したのか、考えるのは面白いです。大砲かバターか、という論争は今の自民党総裁選をみても出ていますが、下り坂の現代日本では「貧国強兵」になりそうです。