榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(中編-1)
国利民福 Ⅲ.安全保障 中編-1
・『海律全書』のその後
榎本がオランダ留学中の指導教官であったフレデリックスから榎本に贈られた『海律全書』は、1926(大正15)年に武揚の孫、榎本武英(武憲の二男、子爵)から宮内省に献納され、図書寮(ずしょりょう)で保管されることになります。それは、日本が日清(1894-1895、明治27-28年)、日露(1904-1905、明治37―38年)、第一次世界大戦(1914-1918、大正3―7年)を戦い抜いて、榎本の『海律全書』は役割を終えたが如しです。
唱歌「夏は来ぬ」の作詞者、文人の佐佐木信綱*1は、図書頭(ずしょのかみ)の杉法学博士*2の厚意で、宮内省に保管された『海律全書』と対面し、「古今傅授と萬國海律全書」という題名の文を大正15年8月1日発行の『文藝春秋』(菊池寛編輯、第4年8号)に発表しました。
佐佐木は「古今傅授と萬國海律全書」の文中で、『希望の図書として不朽に伝へんが為に、宮内省図書寮に移管された』、『このうるわしい経歴のある原本と、海軍省から添付されたフレデリックスの序文の邦語訳、及び、大鳥圭介男*3の日記にある榎本子*4と海軍との往復の文書の写しをも見ることを得た』と書き出します。
*1 佐佐木信綱 明治5―昭和38、歌人、国文学者、三重県出身、東京帝大文学部古典講習科。(「夏は来ぬ」は1896(明治29)年に刊行された教育音楽講習会編『新編教育唱歌集第5集』に採用されました。榎本も口ずさんだかもしれません。)
*2 杉法学博士 杉栄三郎 1873(明治6)-1965(昭和40)、岡山県出身、東京帝大法科大学政治科卒、官僚。宮内省図書頭(ずしょのかみ)兼諸陵頭(しょりょうのかみ、和訓:みささぎのつかさ)、東京帝室博物館総長など。
*3 大鳥圭介男 大鳥圭介男爵
*4 榎本子 榎本武揚子爵
箱館戦争の勝敗が見えてきた頃、官軍、黒田清隆参謀と榎本武揚らの手紙のやりとりの中で、榎本は、『海律全書』は「皇国無二の書」なので、この本が戦火に消えることを惜しみ、『海律全書』を黒田に贈ると、黒田は『海律全書』を必ず訳書を以て天下に公布します*、『海律全書』を官軍へ渡してくれたお礼に酒樽五樽と肴を贈ります、と答書し、酒、肴を榎本に送ります。箱館戦争中の榎本と黒田の美談として有名なやりとりです。佐佐木信綱は『生死の危ない間を通して、一つの文化が世に伝わって行く時、そこにこうした人間のうるわしい意思のあらわれる事を見て、何ともいえず情の深まるのを覚える』と記し、文を閉じています。
* 国会図書館に海軍参謀部が明治22年12月に発行した『海上国際法』が納められています。この著者は、フランス海軍文庫主管のエドアールであり、原典は1888年に刊行されたとあります。それまでの間、榎本の『海律全書』が利用されたのでしょうか。
佐佐木信綱が言う「フレデリックスの序文」とは、『海律全書』の「榎本への献辞」のことで、佐佐木信綱の文章から原典には邦語訳がついていたことが分かります。佐佐木信綱はこの邦語訳された序文(献辞)について以下のように書いています。
『明治以前のものであるが、その序が中々面白い、今となって見ればその論旨が全く適中しているだけにかえって平凡にも見えるが、当時わが日本の前途に就いて予言し、かつ中々の気焔を上げておるのである。例えば、「余は本書を凝視しつゝ熟考するに、自然の地勢と民衆の素質上必ずや洋上の一方に於ける雄大なる海軍国と成るべき運命を有する大日本帝国の国際公法の知識普及上、本書は其の先駆者となるべきを信じ、自ら一種の誇りを覚え、余の心臓の鼓動の高まるを禁ずる能わず」等述べており又日本に対し警告を発している。即ち、「若し国際公法に関する書籍よりも、一個の大砲を入手する方有利とする者あらば、余はこれに対して、『知識は力なり』との古諺(こげん)の永久に真理なることを挙げざるべからず」。また、「庶幾(しょき、心から願う)すらく、須く西洋文物を咀嚼善用して、之を貴下の祖国伝来の文明と融合せしめ、以て将来永久に光輝あり、且益々発展する国家たらんことを」。また、「夫れ国家は必ずや、発展繁栄か、若しくは潰滅かの孰(いず)れかの一途を辿(たど)るべきものなるは自然の法則にして、之を避退するを得ざるなり」。かつ榎本氏が語学に通じて、術語をよく知っている為に、殆ど講義に苦しまなかった事や、この海律全書は日本語に翻訳するときの便宜を計って、フランス式の繁雑な形容及び比喩に富んだ修辞を省略したことなどが記してある。』
大正時代に入ると明治維新は遙か昔のような存在になっていたようです。新しいことでも20年経過すれば、その歴史を書くことが来ます。もう昭和になろうとしている大正15年、明治維新から60年近く経っていますから、フレデリックスの献辞に書かれた内容が、今となっては当たり前のように思えるのも当然かもしれません。
それでも尚、60年前の、榎本の成績評価と榎本への教訓を記したフレデリックスの一文、榎本と黒田の『海律全書』という文化をめぐりやりとりされた手紙を見て、文人である佐佐木は大きく感動したのでした。
・オランダから列強の殖民地経由で日本へ向かう
フレデリックスのこの薫陶を受けた榎本たちの軍艦開陽丸は、1866年12月にブラジル帝国*1の首都リオデジャネイロ、翌1867年2月にオランダ領モルッカ諸島(インドネシア北東部)のアンボイナ(現在のアンボン)へ寄港します。開陽丸がリオデジャネイロに帰港したことは、外務省の『日本・ブラジル交流史年表(1867年~1941年)』の冒頭に記載されています。アンボイナは、当時スパイス諸島と呼ばれるオランダ領のモルッカ諸島の主要都市です。
榎本がリオデジャネイロに寄港した時、リオデジャネイロはポルトガルの殖民地から独立を果たしたブラジル帝国の首都でした。皇帝はポルトガルの王位継承権をもつ王子でした。リオデジャネイロは奴隷経済、利権を巡る争い、植民地と本国との関係などを知ることのできる現場でした。
榎本たちがアンボイナに帰港したときは、モルッカ諸島はオランダに完全に支配されていました。しかし、榎本たちが帰港する200年以上前に、ジャイルズ・ミルトン『スパイス戦争 -大航海時代の冒険者たち』(朝日新聞社、2000)によれば、モルッカ諸島のスパイス-重要な利権の支配を巡って、英国とオランダの東インド会社の軍隊が想像を絶する戦いを繰り広げていました。
1621年、オランダがバンダ島の英軍を攻撃*2 したとき、過去最大と思われるオランダ兵力の中に日本人傭兵80名が加わっていたのです。大航海時代と活字印刷による出版が始まり、東アジアでは日本を含め、人、もの、情報が錯綜しました。日本からも遠洋航海が行われました。日本人が海外で活発に活動した時期です。東南アジアでの戦闘に日本人も傭兵として参加しました。日本がまだ鎖国*3に踏み切る前の時期でした。
1623年には、アンボイナ事件が起きます。オランダ東インド会社のオランダ商館は、英国商人が日本人傭兵を利用してアンボイナのオランダ商館を襲撃しようとしているという容疑で、島内の英国人、日本人、ポルトガル人を捕らえ、拷問したあげく日本人9人を含む20人を処刑しました。この出来事をアンボイナ事件と言います。
翌年、1624年に英国から『アンボイナにおけるイギリス人に対する不当、残酷、野蛮な所業の真実』という小冊子が出版され、拷問シーンがセンセーショナルだったためか、英国でベストセラーになり、12版の増刷がされ、「事件から四十年たっても、まだ増刷されたほどである」、そして、英国はオランダに宣戦布告をするべきだという世論が起き、オランダでは記述内容のあまりの恐ろしさに動揺が生じ、議会が声明をだしたとジェイルズ・ミルトンは書いています。
榎本はオランダで西洋の歴史を学び、さらに西洋列強が殖民地争奪戦をした地に寄りながら帰国しました。西洋列強が経済的利益独占のために世界を舞台に繰り広げる激しい戦い、そのための商圏と海軍力(海上権力)との結合、そして、奴隷経済の悲惨さを現場で直視しました。
*1 ブラジル帝国 1822~1889
ナポレオン軍の攻撃を受けたポルトガルのブラガンサ王朝は、1807年11月に英国艦隊に護られながら殖民地のブラジルへ向い、1808年3月に首都をリオデジャネイロへ遷都しました。ポルトガル・ブラジル国王は1821年にブラジル国王兼位のままポルトガルのリスボンに帰還しました。この時、ブラジルの分離独立を恐れ、王太子をブラジル摂政として残しましたが、ポルトガル派とブラジル派の対立が激化し、1822年にブラジル派が摂政の王太子を皇帝に擁立し、独立を宣言し、ブラジル帝国が誕生しました。1825年にブラジルに影響力が強大だった英国は、米国のブラジルへの介入を警戒してブラジル帝国を承認し、ポルトガルにも承認させました。1888年に皇帝が奴隷制を廃止すると、経済的打撃を受けた保守層が軍事クーデターを起こし、皇帝は廃位され共和制へ移行しました。
*2 バンダ島への攻撃 1621年
英国東インド会社が支配するバンダ諸島をオランダ東インド会社の軍隊が攻撃し、英国人や中国人を排除し、征服します。
*3 鎖国
日本は1633年、鎖国を開始し、幕府は貿易を独占します。
・榎本の帰国
1867(慶応3、榎本31歳)年3月26日に榎本が乗った軍艦開陽丸は横浜港に到着しました。
この年の一月には幕府はロシアと樺太仮規則五箇条に調印し、10月に大政奉還の上表を朝廷に提出します。そして、12月に王政復古が宣言されます。
明治になって榎本が箱館戦争を起こした理由を雑誌の収録のための対談で尋ねられた時、自分はオランダ留学が長く、日本国内の事情にうとかったのだと答えました。情報収集と分析を怠らない榎本が国内外の状況を把握していない訳はなく、保身のための言い訳だったのでしょう。
西洋史に通じていた榎本は、帰国したとき国家意識に変化はあったのでしょうか。日本を取り巻く環境から、諸藩の連合国家から中央集権国家に国家体制を戻すべきだと考えたでしょうか。
明治元年閏四月二日の榎本から勝海舟へ送った手紙では、徳川藩を『我国家』と書いています。帰国後も榎本は、外国に対しては日本国、国内では徳川家が我国家でした。廃藩置県後も徳川家にこだわった榎本は日本国の構造をどう考えていたのでしょうか。
・資金調達と資金の枯渇
鳥羽伏見の戦いに負け、徳川慶喜は開陽丸に乗り、大坂を去ります。上陸して情報収集をしていた榎本は、徳川慶喜が遁走した後の大坂城で後始末をしていたところ、長崎海軍伝習所の先輩である小野友五郎*と遭遇します。榎本は、小野から御金蔵に古金十八万両があるが運送に困却(こんきゃく、困り果てること)している、なんとかならないかと相談されます。すると、榎本は「任せて下さい」と返事をして、戦乱で逃げ出そうとする人足たちを、部下に抜刀を命じて脅しながら苦労して運び、ついに不二山(ふじやま、富士山)艦に積み込むことに成功します。
* 小野友五郎 1817(文化14)年10月23日~1898(明治31年)10月29日
常陸笠間藩士、幕臣。徳川幕府時代は、数学者(和算家、洋算家)、測量に精通していたので阿部正弘から長崎海軍伝習所入所を命ぜられる。築地軍艦操練所教授方。咸臨丸で渡航し米海軍ブルック大佐と親交をもつ。甲鉄艦調達のために渡米し交渉するなど活躍しました。明治新政府では鉄道建設、数学教育、中央天文台設置の提案などをし、退官後は製塩事業に邁進しました。測量用の紅白ポールは小野の発案ではないかと言われています。
江戸に戻った榎本は、徳川慶喜に大坂城から持ち帰った重代の(先祖代々からの)刀剣類と古金を差し出し、3万両の下賜を請願しました。オランダ留学した仲間のうち、三名(伊藤玄伯、林研海、赤松大三郎)が、開陽丸が日本へ向けて出帆した際に乗船せず、残って勉学を続けていました。しかし、国内の混乱から日本(徳川)から送金できずにいましたので、彼らの学費と帰国の旅費に充てるという請願内容でした。徳川慶喜は快く許しました。早速、榎本は横浜のオランダ国領事に送金を依頼し、三名は十分学業を納め、帰国を果たしました。幕府は混乱していて、ヨーロッパに三名の留学生を置き去りにしていましたが、榎本は忘れず、救出することができました。
一両を30万円*としたら、3万両は90億円です。一両を10万円としても30億円です。この三万両を全額、この三名に送金したとは思えません。残りを榎本艦隊脱走時に持っていって軍資金にしたのかも知れません。2007年の塩竈市のホームページに榎本艦隊について次のように書かれていました。
*一両を30万円・・・出典『NHK知るを楽しむ 歴史に好奇心「拝見・武士の家計簿 3」』
一両を現在価値へ換算するには、流通米や人件費などいろいろな基準があります。ここでは、一両を30万円とする大工の人件費(工賃)をもちいた換算レートで計算してみました。
『戊辰戦争(榎本艦隊入港当時の浦戸)
明治元年10月、出航時、榎本武揚は謝礼金や費用を島民の関係者達にきちっと払ったが、明治2年3月、官軍は略奪した上にいろいろな記録まで持ち出して行った』
そんな礼儀正しい、軍律を守った榎本たちですが、箱館で資金が枯渇します。するといろいろな方法で町民からお金を巻き上げるようになりました。物価は高騰しました。そのため、町民は榎本を「ぶよ」と呼ぶようになりました。そのため、榎本は不評だったと言われています。榎本自身もこのことを自覚していたでしょう。
榎本が明確な事業計画、資金計画を用意していたのか疑問が残ります。大雑把にでもあったのでしょうか。町民からいろいろなところでお金を巻き上げる行為は、つまり、課税し、税収を得たのですが、組織の運営費、開拓事業に必要な先行投資の資金などをとてもまかなえる金額にはならなかったでしょう。榎本は資本の必要性、収入の重要性を肌で感じ、痛切に反省したはずです。
榎本たちが脱走した後、西郷隆盛から江戸を預かる勝海舟は当然、管理不行き届きで責められました。そして、今すぐにでも追討軍を官軍は送り出そうとすると、勝海舟が、「あいつらは子供なんですから金がなくなれば帰ってきます、放って置いて下さい」と主張して、追討軍の出発を止めました。
(出典:『海舟座談』、『氷川清話』)
・脱走
榎本の肩書きは、以下のように変化していきます。肩書きの推移に合わせて榎本の脱走から投獄までを考えます。
- 脱走前・・・(旧徳川幕府)海軍副総裁
- 脱走後・・・徳川脱走海陸軍を代表して榎本釜次郎
- 箱館新政権を樹立前・・・蝦夷全嶋鎮台
- 箱館新政権を樹立後・・・・蝦夷嶋総裁(または北蝦夷嶋総裁)
- 降伏後の調書では・・・元徳川慶喜家来海陸軍総裁 榎本釜次郎
以下、樋口雄彦『箱館降伏人と静岡藩』(国立歴史民俗博物館研究報告第109集、2004年3月)によります。
明治維新後、旧幕臣は徳川家に従い駿府府中藩(後の静岡藩、以降、静岡藩で統一します)に移住、新政府に仕官し朝臣になる、帰農・帰商するかの選択でしたが、あらたに榎本が脱走・抗戦という選択肢を作り出します。
静岡藩では駿河へ移住する家臣5,400名のうち、陸軍局3,000名、海軍局海軍副総裁榎本以下530名を計画します。榎本は慶応4年(1868)8月に、静岡藩へ同行する海軍関係者名簿を提出し、彼らの勤続を希望しました。しかし、8月19日の夜、名簿に名前が記載された132名のうち59名が榎本らの脱走に加わりました。132名以外の名前が記載されない、いわゆる端役の中からも多数、脱走に参加したと見られています。
海軍局設置にあたり、海軍艦船を用いた訓練計画と訓練実施予定の港まで決まっていました。しかし、そういった計画やそもそも海軍局自体の計画が、榎本らの脱走で無くなってしまい、残された人たちは、あらためて就職先を探す羽目になりました。ところが静岡藩にとっては、静岡藩一藩で海軍を保有することは無駄なので、その結果、榎本らの脱走は、かえって静岡藩にとって艦船の維持費を不要にし、人件費も減らす事になり、藩財政の負担を減らすことになりました。
榎本の脱走から降伏までの経緯を簡単に箇条書きにしてまとめました。
(徳富猪一郎『近世日本国民史 第七十六巻 函館戦争篇』時事通信出版社、昭和38年9月18日を基にします。)
- 明治元年(慶応4年)4月11日に、榎本は最初の脱走をします。艦隊は品川からまず館山に集結します。
このときは、榎本艦隊は兵庫に拠点を構築し、京都から東へ展開している薩長軍と薩摩藩、長州藩とを分断し、二艦隊を作り、一艦隊は長州攻撃と同時に下関海峡を封鎖し、他の艦隊は薩摩を攻撃する戦略を用意していました。
- 4月16日、勝海舟は馬を走らせ館山へ急行し、榎本武揚と船内密室で話し合った結果、兵庫行きは中止になり、艦隊は品川へ戻ることになりました。翌日、艦隊は品川へ帰港します。
- 館山ではさらに密約がされました。西郷が了解しているので、二、三隻を薩摩長州軍に引き渡し、徳川家が静岡への移動が終了したら、残りの艦船を好きにして良いと、勝は榎本に約束します。
(このことがあったためか、榎本艦隊が脱走すると、榎本と勝は示し合わせていたという疑いを新政府側が持ちます。それを予測して打ち消すためか、勝は日記に、榎本が今日脱走すると挨拶に来たので、榎本に反対したと書きました。勝は常に新政府側のスパイにつけ回されていたので、スパイが読むかも知れない日記に弁明のために書いたのでしょう。)
- 静岡藩海軍局へ艦艇と旧幕臣の海軍全員で異動しなければならない8月に、榎本艦隊は品川を脱走し、仙台へ向かいます。榎本は、8月はまだ、仙台で戦おうとしましたが、仙台で現地の状況を把握後10月に蝦夷へ移動します。
- 仙台から出帆する際、北海道の防衛と開拓を徳川家臣達に任せて欲しい、責任者に徳川一族から派遣して欲しいと要求する手紙を朝廷に出しました。そこには、要求が認められないなら、戦う覚悟があると一言添えました。
- 榎本らの提案(要求)は認められません。その結果、箱館で待つと答えます。すでに戦闘モードに突入です。
(榎本は明治になって『舊幕府』で、函館戦争の時に、鷲ノ木から上陸し、間道を使って攻撃して成功したのは、蝦夷の地理を知っているからで、それは、1854年に蝦夷に行ったとき「函館の船問屋佐藤半兵衛と云う者から地図を得しが故なり」と語っています。しかし、鷲ノ木上陸作戦の立案には、仙台藩の偵察方であった細谷直英、通称、細谷十太夫の情報収集と調査によるところが大きかったのではと想像しています。そこで、細谷に迷惑をかけないために、佐藤半兵衛の話しをしたのでしょう。長男の十太郎は南方移民し、ニューギニアで事業を興しています。表からは見えない、榎本と細谷の関係があったようです。)
- この状況下で外国勢力は局外中立を宣言しますが、その後撤回します。
- 開陽丸は江差沖で座礁し沈没します。米国から日本へ回送された甲鉄艦は、大隈重信の強烈な交渉の結果、新政府側に引き渡されます。宮古湾に到着した甲鉄艦を奪うべく、榎本軍はアボルダージュ作戦を立案し、宮古湾に突入しますが、失敗します。そして、榎本たち徳川脱走海陸軍は制海権を失います。
- 箱館戦争の結果、榎本軍は全滅を避け、降伏をします。従来の武士スタイルと欧米スタイルの戦争が混在した戦争でした。敗戦処理にあたり、南北戦争の例が新政府に強く影響したと考えられています。
(戊辰戦争を「武士道」の視点で理解しようとすると、箱館戦争で敗戦した最高責任者の榎本が死なず、更に、敵であった新政府で大臣にまでなることが許せないと考える方が多いようです。戦っている当事者は家臣たちです。家臣は主君から与えられた使命を果たさなければなりません。箱館敗戦時、榎本はまだ死ぬことができなかったのです。)
仙台で榎本たちの行き先の選択肢は三つありました。ハワイ王国からのお誘いを加えると四つです。榎本たちは北方の守り(国利)をしながら蝦夷を開拓(民福)させて欲しいと朝廷へ要望していましたから、日本国の国利が不明なハワイ王国への転籍は論外です。しかも、ハワイ王国の海軍ともなれば、米国海軍との正面からの対決は避けられません。これはブラジル帝国の承認過程で英国が米国の介入を恐れたことからして、榎本は避けたいところでしょう。ロシアの南下に対する榎本艦隊の行き先三択とは、蝦夷、佐渡、朝鮮でした。どのような議論、経緯を経て蝦夷に決まったかは分かりませんが、艦隊は蝦夷へ向かいます。
大正15年12月10日発行の国際法学者、尾佐竹猛『国際法より観たる 幕末外交物語』では榎本らの蝦夷嶋政権を明治新政府樹立直後にすぐ誕生した新政府と言います。榎本軍が蝦夷を平定すると、英仏の領事、艦長らは、榎本軍は交戦団体であると承認し、中立を守ります。そして、『新政府樹立に付き総裁以下を選挙し*、総裁に榎本釜次郎、副総裁松平太郎、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介以下の官吏各定まった』とあります。
尾竹は、行政組織は非常に整頓された新政府で、全軍の趣旨は北海道開拓を標榜していただけあって開拓奉行の組織は注目するべきだと評しています。初め榎本は蝦夷全島鎮台といっていましたが、選挙の結果蝦夷島総裁あるいは北蝦夷総裁と称することになりました。
* 選挙
海賊の船長も投票で選びます。榎本たちが、諸外国から海賊と認定されては困るのですが、内輪では「海賊の掟」(山田吉彦『海賊の掟』新潮新書180、2006)を参考にしたのかも知れません。榎本はオランダで、海軍軍人として海賊の歴史も学んでいたはずです。
『海律全書』や箱館の新政府について、大正15年に評価ができあがっていました。その評価は、榎本の幕末の行動を非難するものでは無く、むしろ専門家から感動すらもって賞されました。
・箱館戦争降伏人
榎本ら戦争指導者は、東京へ陸路で護送され、軍務官糾問所に禁錮されます。一方、榎本ら幹部以外の大多数の脱走軍兵士らは函館(榎本らが降伏後、蝦夷は北海道、箱館は函館へと改名される)へ戻されたり、静岡藩に送られたり、他のいくつかの藩に預けられたりします。静岡藩の幹事役、勝海舟と山岡鉄舟という江戸城無血開城コンビが、降伏人の早期釈放とリクルートに奔走しました。徳川家は釈放された降伏人には温情的扱いをし、静岡藩で最低のランクで一年限りの再雇用をします。それ故、リクルート活動が必要でした。遺族の家庭には家名断絶にならないよう様々な手当てをしました。
ここで、意外なことが起きます。箱館降伏人に対し、預けられた藩からは釈放されたら「御貸人」、つまり派遣社員として採用し、派遣期限が過ぎたら、雇用したいという要望が来ます。この状況を把握した勝と山岡は、熱心に他藩に静岡藩に戻った降伏人売り込みをします。
榎本についていった兵士は、洋式軍隊の教育と訓練を受けていたため、その見識の広さに引く手数多になりました。さらに意外なことに、胆識力でも斡旋されました。明治になり、移動が自由になったので、静岡藩に戻った兵士の中で、薩摩藩の見学を希望する者が出ました。すると、勝は旅費を用意してぜひ行ってきなさいとアドバイスします。
彼らは、諸藩をみながら薩摩藩に入ると、なんと、西郷隆盛が諸手をあげて*よくいらっしゃいました、薩摩藩の隅々を見ていって下さいというようなことを彼らに言います。彼らは感激しながら、薩摩藩の組織運営、組織構成員の上下関係など見学し、徳川幕府との違いに驚きをもって帰ります。代表的人物は、人見勝太郎です。人見は胆識力のある人物として、大久保利通から後に出仕を求められ、官僚として活躍し、実業でも活躍しました。
* 西郷隆盛 戊辰戦争後、今後の国家運営のために東軍・西軍のわだかまりをいくらかでも緩和するため、薩摩藩は融和策を取っていました。
降伏人の再雇用の条件は二つでした。
- 見識の広さ(洋学の修得者)
- 胆識力をもつもの(知識、見識、胆識を三識と言い、中でもものごとの実現には胆識が必要とされる)
箱館戦争降伏人には、この二つのいずれかに該当する兵士が多数いました。そして、この二つの条件を併せ持つ人物こそ、榎本武揚でした。榎本たちが東京で投獄されて明治政府が確保することは当然の結末でした。箱館で降伏した榎本ら幹部を陸路で護送しながら、宿泊地で寛大な、しかも接待しているのではという扱いは戦時国際法で敗戦の将官の扱いを守っているように見えます。しかし、榎本らを捕縛して軍艦に乗せてさっさと東京へ移送すればいいものを何故、日数がかかる陸路なのでしょうか。
東北の陸路を、榎本たちを籠にいれて練り歩けば、東北の人たちに戊辰戦争は薩長軍の勝利で終わったと広報してまわることになりますが、しかし、宿泊地に着くごとに、密談していたのではと疑われます。榎本たちは投獄されると、突如、人が変わったように、自分たちは理工学が大好きです、実験もさせて下さい、もっと理工学の本を差し入れて下さいと、まるで別人のようになります。
別人のふりをしながら、榎本は黒田と北海道の開拓方針を議論し、その内容を黒田はケプロン*に伝えます。一体、牢獄の中で、榎本たちと明治政府の幹部らはなにを話していたのでしょうか。
* ホーレス・ケプロン (1804~1885)
米国農務局長、黒田清隆が招聘し開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問、1875年(明治8年)5月帰国。榎本とは激論になることもあった。
箱館戦争そのものに対し、静岡ではどう評価したのでしょうか。
1871(明治14)年の明治政府で黒田清隆が起こした「開拓使官有物払い下げ事件」に際し、静岡の新聞の社説で以下の主張がされました。(樋口雄彦『沼津兵学校の研究』吉川弘文館、2007から引用、抜粋)
戊辰戦争時、幕臣は四派に分かれました。
- 翌幕党・・・箱館で降伏を経験した人たち
- 王臣党・・・造作も無く新政府に臣従した人たち
- 移住党・・・家禄にかじりつこうとして駿遠へお供した人たち
- 帰農党・・・旧知行所の名主頼みに田舎へ逃げ込んだが結局帰参した人々
社説の結論は、「翌幕党」こそ「正理」としました。
政府軍と戦い、敗戦して苦労したが、結局は高く用いられているではないか、徳川家臣の立場に固執したが、敗戦後は徳川家の人減らしの対象となったため、かえって国家や社会全体を相対的に視ることができるようになり、廃藩置県をまたずにこだわりなく生きていけたのだろう、資本主義の社会へ激変する日本で、真っ先に意識の大転換できた人たちだったと評価されました。
この記事のコメント
-
高成田様 まさに時宜を得たコメントをいただきありがとうございました。ご指摘のように、箱館戦争の戦後処理の相談を榎本武揚(当時、釜次郎)と黒田清隆とでしていたとしか考えられません。その話しの中には密約もあったのだろうと想像しています。
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海律全書についての佐々木信綱の話も興味深いですが、榎本の投降から下獄するまでの黒田らとの交流は、新しい視点ですね。読みながら、マッカーサーが昭和天皇と何度も占領政策について話し合っていた話を思い出しました。