榎本武揚と国利民福 Ⅰ. 南方経営
パラワン島近海の無人島(1980年3月、筆者撮影)
榎本武揚と国利民福
今から150年前の戊辰戦争の最後となった箱館戦争で幕府軍を指揮した榎本武揚(1836~1908)は赦免後、明治政府に仕え、駐露公使、逓信・文部・外務・農省務大臣などの要職を歴任し、日本の近代化(殖産興業)に尽力しました。明治政府の国策は「富国強兵」でしたが、榎本は「国利民福」という言葉を好んで使っていました。「強兵」路線の行き着く先が日中戦争や太平洋戦争につながったと考えると、榎本の「民福」路線を日本が歩めば、隣国との関係が今もぎくしゃくしているこの国の姿も異なっていたかもしれません。
榎本の描いた「国利民福」のビジョンとは何だったのか、あらためて考えてみたいと研究を進めてきました。その成果をお話したいと思いますので、まず「国利民福」という言葉がどこから出てきたのか、ということから話をはじめたいと思います。
榎本は、明治政府の重職を歴任するなかで、気象学会、電気学会、殖民協会などを立ち上げ、それらの会長に就きました。榎本は、それらの会長としての演説の中で「国利民福」という言葉を発していました。そこで「国利民福」という概念はいつ、誰が最初に唱えだしたのだろうかと調べてみました。
例えば日本書紀の天武紀9年11月(680年)に「戊寅、詔百官曰、若有利國家寛百姓之術者、詣闕親申、則詞合於理立爲法則」とあり、『日本書紀 (五)』ワイド版岩波文庫は「若し国家(あめのした)に利(かが)あらしめ百姓(おほみたから)を寛(ゆたか)にする術(みち)有らば、闕(みかど)に詣でて親(みづか)ら申せ」(p234)と、読み下しています。「国利民寛」ということになりますが、広く解釈すれば国利民福の国内での最初の発信となるのでしょうか。その後、私の教養レベルでは明治になるまで文献の中に「国利民福」を見つけられませんでした。
この言葉に類するものとして「国益民福」という言葉が、慶応4年に出版された、津田真道訳の『泰西国法論(たいせいこくほうろん)』*に登場します。徳川幕府は開国とともに欧米の社会システムとその変化する速度(ダイナミズム)の源泉を知る必要が生じました。1862年にオランダへ向かった榎本たち青年には、幅広い情報と知識の収集、学問の修得が幕府から求められていました。津田真道が、オランダ語で書き取ったライデン大学のフィッセリングの講義録を邦訳した『泰西国法論』の中に、「国益民福を増加する」という表現を用いた箇所がありました。(詳しくは、文末【追記】を参照)
明治に入り、滋賀県立公文書館蔵、明治5年(1872)4月付の『勧業社規則』では、滋賀の商人、近江商人らは、事業投資の目的を「国益民福」としました。(詳しくは、文末【追記】を参照)
明治6年10月(1873年)に発刊された大井憲太郎が訳した『仏国政典』(ドラクルチー著)の「仏国政典序」の中に、「国益民福」という言葉が登場します。鷲津宣光(わしづのりみつ)が書いた序文の終わりに「則必有所増加国益與民福也大」(すなわち必ずや国益と民福を増加するところ大なり)と記しているのです。鷲津宣光は儒学者なので国利民福の概念は儒学にあるのでしょうか。
そして、明治16,7年頃(1883、84年)に「ダイナマイトどん」という唄が流行し(「俚謡集拾遺」大正4年出版の『附録明治年間流行唄』に収録)、その歌詞は「国利民福増進して民力休養し、もしもならなやきママ、ダイナマイトドン」です。ここにきてずばり「国利民福」と言っています。明治6年からの十年間に確定した四字熟語なのでしょうか。その後、日本最初の演歌と言われる「ダイナマイト節」に「ダイナマイトどん」が取り入れられて明治20年(1887)頃から24年(1891)にかけて流行しました。
次に明治20年4月2日出版、大井憲太郎著『自由略論』に国利民福をタイトルにした節が二つあり、また文中でも用いています。第1章「論自由政体不可少於国利民福」(国利民福において自由政体は不可欠)、第4章「覆説政党政治之不可少干国利民福」(国利民福をもとめるには政党政治が不可欠)。続いて加波山事件を扱った同年8月出版、竹越與三郎著『政海之新潮』にも国利民福は出てきます。
しかし、国利民福は自由民権思想の独自の用語ではなく、国利民福の実現には自由民権政体が不可欠だという主張です。国利民福は人類が求めるゴールの一つです。国会図書館で「国利民福」を検索すると様々な分野で国利民福が語られています。明治時代は「富国強兵」一色だと思っていましたが、「国利民福」を実現しようとしていた人々がいたことに気づきます。
国利民福の由来をみたところで、榎本自身の国利民福を、Ⅰ南方経営、Ⅱ技術立国、Ⅲ安全保障の三つの視点から考えてみます。
Ⅰ 榎本武揚の南方経営
加茂儀一著『榎本武揚』(1960年9月発刊)の12章「榎本の征韓論と南進論」では榎本がいかに南方殖民を強く押し進めようとしていたかを紹介し議論しています。榎本の国際性と先見性が結論づけられています。
高村聡史『榎本武揚の植民構想と南洋群島買収建議』(1999年3月)によると、明治4年(1871)の十三大藩視察団に佐賀藩から参加した山中一郎は海外視察御届出で南洋群島とオーストラリアへの植民を提案します。そして、加茂儀一によれば、榎本は岩倉具視に明治8年(1875)にロシアから私信で犯罪者を小笠原諸島に植民させ、コーヒー、たばこなどを栽培、製造させることを提案し、明治9年(1876)には、スペインとも内々に話をつけてあるので、スペイン領南洋群島を購入し、さらに無主の小島を加えて新たにコーヒー、たばこの栽培、製造を行い、加えて航海事業を興し、商圏を海外に拡張する提案をします。
さらに、明治11年(1878)には青木周蔵と榎本は共同で北ボルネオをオーストリアの貴族から買い取り、工業に必要な原材料を入手するために華族に出資させて開拓会社を設立する案を伊藤博文に提出します。しかし、伊藤から日本はこの如き領地を海外に所有する必要はないと却下されます。その後、1880年代から90年代にかけて南洋群島はドイツ、英国、オランダの領土や保護領に変わります。榎本の先見性を評価すべきか、伊藤が同盟国となる英国を忖度したとみるべきか、今後の専門家の議論に委ねます。
訪日して滋賀県大津市を通過していたロシア帝国のニコライ皇太子が警備していた警察官に切りつけられ重傷を負います。大津事件と呼ばれました。その大津事件処理のため榎本は明治24年5月(1891年)に第1次松方内閣の外務大臣に急遽就任します。榎本は自身の殖民ビジョンを実現するチャンスと思ったのか、8月8日に外務省官房移民課を設置します。大臣談話として、「以前(明治8年)より殖民の必要性を熱心に主張し、その実効策を研究してきました。今日の一大急務は外に在りては国民の品位を改良し内に在りては社会の生計を補助するにあり、この殖民事業こそ無比の解決手段である」と語りました。
翌年、内閣総辞職により外務大臣を辞任すると移民課も消えていきますが、諦めずに明治26年(1893)に殖民協会を設立します。会長演説では殖民事業が我国家経済上に於いて必要かくべからずことであり、「この一大問題たる殖民事業の成功を以て所謂『国利民福』を図るは我々に求められている」と訴えています。
榎本の殖民論を詳細に見ていくと非常に興味深いのですが、ここでは南方殖民と国利民福の議論に絞って検討します。榎本の大臣談話や殖民協会会長演説では、「我邦近来人口は年々に繁殖し、而して国内之に供する産業乏しきは世人の普く知る所なり」などと主張しています。簡単に言えば、今、人口増に対し国民を国内で食べさせる産業が無いから海外へ殖民しよう、殖民に際し、日本国民としての品位を保とうということになります。
榎本は人口増を吸収できる産業がないことを問題にしていて、その解決策は殖民以外に無い、これを実現すれば国利民福が実現すると主張しましたが、人口と産業はどんな状況だったのでしょうか。まず人口増加率は榎本が主張した明治26年頃は0.8%で1%になるのは明治30年台です(岡崎陽一『現代日本人口論』ほか)。人口の増加率は落ち着いていますが、今後の人口増加の勢いを感じてもおかしくない傾向だと言えるかも知れません。榎本はこの傾向をもって殖民を百年の計と訴えています。明治維新以降、農村の二男三男問題が生じ、農村で食べさせられない青年男女は都市部へ押し出され、都市部貧困層を形成します(農村人口問題研究会編『農村人口問題研究』第二集)。新たな産業と言えば紡績工場など設備産業が勃興した程度でしかも紡績工場は女子供を雇用し、男は雑役か車夫程度の仕事しかない状況でした。この状況を殖民事業で貧民を救済し、殖民により国土が海外へ拡張し航海事業を興し商圏を拡大し、国利につなぎたいということでしょう。
榎本は北進論に対し南進論を取っていた(加茂儀一)と語られ、実際に南方殖民に熱心だったということは分かります。しかし、なぜ北進でなく南進なのか、なぜ南方殖民なのかについては議論されていません。北進か南進かといえば、榎本が示す殖民先は日本から南方だから南進ということになります。北進が大陸経営なら南進は南方経営です。それは海洋国家である日本が大陸国家を目指すのか海洋国家のまま領土を拡張するのかという違いがあります。榎本は日本が海洋国家という性格を基に平和裏に(購入によって)領土を拡張しようとしていました。しかし、本当にそういう地政学的概念で南を目指したのか。
従来の榎本の研究では榎本はこんなことをしたと業績を山積みにする論ばかりでした。しかし、それでは榎本が何を考えて明治時代を生きていたのかが分かりません。榎本はあちこちでいろいろな商品に対し海外のどこの市場なら高く売れる、この商品をこうすれば欧米の商品に比べて競争力が出て高く売れると言って歩いています。榎本は、維新前に幕府の開陽丸建艦監督としてのオランダ留学や外交官としてのペテルブルクでの生活や旅行を通して市場をより詳しく把握したと考えられます。
その結論は競争力ある世界商品を日本から海外各地へ輸出することでした。その世界商品とは綿、砂糖、コーヒー*、たばこです。榎本が選んだ世界商品はコーヒー、たばこで、これらは日本から南方の気候で栽培されます。そこで榎本は小笠原諸島以南の南方群島でのたばこ、コーヒーの栽培やメキシコでのコーヒー栽培をする殖民を追求していくことになります。その結果、南方経営を目指していたことになります。すなわち南方経営が初めにあったのでは無く、世界商品を日本国で生産しようとしたら南の土地が必要だったということで、結果的に加茂儀一が南進論者に分類したことになります。
*竹田いさみ『世界史をつくった海賊』ちくま新書888、2011
榎本の南方経営が実現すれば、平和に領土を拡張し、航海事業を太平洋に興し、海権を得ることで国利を得、国民(当時は臣民)は南洋群島に殖民することで職を得、世界商品の輸出を行い、生計を立てることで民福を実現することになります。残念ながら伊藤らの反対で実行できませんでした。また、メキシコ殖民では当初の調査と違い、コーヒーの栽培に至らず、殖民団は崩壊し、彼ら独自で生きぬくことになりました。
最後に加茂儀一の指摘によれば、榎本は中国と朝鮮と日本とは古くからこみいった歴史があるので、日本は中国や朝鮮とは関わらない方が良いと主張していたことに注目します。榎本が明治初期に構想した日本の領土と中国、朝鮮との関係は以下の図のようになります。
中国大陸や朝鮮半島の権益をめぐり欧州列強とロシアがしのぎをけずり、西部開拓を終えた米国はニューフロンティアとして太平洋の彼方をにらんでいる嵐のなかに後進の日本が飛び込んでいこうというわけで、榎本が着目した「南島領土」は、こうした嵐を避けながら日本の国益を増進させる可能性を秘めていたということになります。
以前、ハワイの真珠湾を訪れたときに、ビジターセンタの資料展示館の掲示板に行くと、次のような説明が書かれていました。
“A Gathering Storm”
Conflict is brewing in Asia. The old world order is changing. Two new powers, the United States and Japan, are rising to take leading roles on the world stage. Both hope to avoid war. Both have embarked on courses of action that will collide at Perl Harbor.
争いの嵐はアジアで吹き荒れ、古い世界秩序は崩れ、米国と日本という二つの新興パワーが世界の舞台での主導権を競うことになり、両者とも、戦争は避けたかったものの、真珠湾での衝突に至る道に乗り入れた、という趣旨でしょう。
詳しくは以下を参照
The Gathering Storm — 75th World War II Commemoration (75thwwiicommemoration.org))
この図から分かるように、もし日本が南方群島を購入し世界商品を生産し輸出し、さらに工業資源を手に入れていれば、日本は中国大陸での利権争いに巻き込まれずに自立的な産業を発展させ、雇用を増やし、所謂貧民を減らすことができたことになったかもしれません。
太平洋における日本の領土拡張を米英がすんなりと許したかどうかはわかりませんし、榎本がそこまで先を見通していたのかは不明ですが、榎本のビジョンでは日本は米英蘭との戦火に引き込まれず、国民を幸福にし、国利が増加し、平和な国家として繁栄をしていたかもしれません。
榎本ビジョンに対し伊藤が我が国はそのような領土を必要としないと結論したことは英国の影響下によるものか、中国や朝鮮半島がより身近な西日本の出身だからかは判明しません。しかし、開国により国際市場、金融システムに組み込まれた日本の新たな政治システムが東日本の徳川幕府によって作られていたら、榎本らの意見に従い南方へ出て行くことになっただろうと考えます。
(次回は榎本の産業技術立国と国利民福について考えてみます)
【図の出典】
2019年5月21日横浜黒船研究会開催、講演『試論 榎本武揚の人物像を探る』(中山昇一)での講演資料、p.4から転載。
【参照】
2019年1月13日横浜黒船研究会開催、講演『榎本武揚と民間団体(初期アジア主義と南進論)』(中山昇一)での講演資料、p.41。
【アイキャッチ画像の説明】
筆者が1980年3月に訪れたパラワン島近海の無人島で撮影した写真。
【追記】
1.滋賀県立公文書館蔵、明治5年(1872)4月付の『勧業社規則』では、滋賀の商人、近江商人らの事業投資の目的が「国益民福」になっていることが分かる。『榎本武揚と国利民福 Ⅳ. 最終編 序章』「序章 近江商人の国益民福から明治40年国防方針の国家目標―国利民福へ」 で紹介した。『榎本武揚と国利民福 Ⅳ.最終編 序章(続)』で明治時代になって「国益」が「国利」に置き換わる経過を紹介した。
2.『泰西国法論』は、榎本達とともに1862年にオランダへ派遣され、『ライデン大学で西周とフィッセリングの授業を受けた津田真道(つだまみち 真一郎。1829-1903)が、帰国後、オランダ語で筆記した講義内容を訳したもの。慶応2年(1866)に稿が成り、同4年に開成所から出版されました。泰西国法とは西洋諸国の国内法のことで、さまざまな法と政治体制について解説し、国民の権利や宰相の責務、国の財政の改善法なども具体的に記されています。』
出典:『35.泰西国法論 激動幕末 −開国の衝撃−』国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/bakumatsu/contents/35.html
3.『立国ノ本意ハ散乱シタル民力ヲ統合シ其条理ヲ正シ政令ヲ理[おさ]メ国益民福ヲ増加スルニ存リ』
出典:津田眞一郎訳『慶応四年戊辰新刻 泰西国法論 開成学校』精々社、明治10年、p.23
4.赤松範一『赤松則良半生談』東洋文庫317、p.169に『後年私の聞く所によれば西・津田等が伝へたフィッセリングの法律・経済の学は、実に我日本に於ける其学問の出発点であつて今日の斐然〔美事なさま]たる我国の斯学に就いては忘る可らざるものであるとのことである。今の法律学者などには其辺の消息が解つて居らないかも知れぬ。西・津田が帰朝後開成所で講じたものは即ち是れであつたのであらう。』と記されている。
前の記事へ | 次の記事へ |
コメントする