「肉筆浮世絵」展で別世界を回遊
シカゴ ウェストン コレクションの「肉筆浮世絵展」で別世界を回遊
1 大入りの美術館
当日は成人の日で、程々の寒さの中、東京の「上野の森美術館」に「肉筆浮世絵展」を鑑賞して参りました。会期末が近付くところ、しかも連休でしたから、大変な混雑でした。それに会場に着いて知りえたのですが、昨年の4月から6月にかけて大阪の「市立美術館」で最初の展示があり、次いで、同年7月から10月にかけて長野の「北斎館」で二回目があって、その後の最後の会期が、昨年11月から、この1月に上野で開催されているとの事でしたから、これにて本邦で見納めになると言う事もあった様です。しかも、同館は比較的小振りな私立の美術館ですので、鑑賞者でいっぱいになったのだと思われます。ただ、白人客とは出会わず、中国語があちこちで聞こえてきました。
2 外国人のコレクションゆえ、幕末から明治初期の収集かと思いきや・・・
今回の展示は、アメリカ人の「ロジャー ワトソン」と言う人の浮世絵のコレクションが元になっているとの事ですので、この節の書き出しのようなイメージで会場に参りましたところ、事情は全く違っている事が分かりました。同氏は存命のシカゴの実業家で、三十歳代の初めの頃に来日した折り、日本の美術や庭園に関心を持つようになり、爾来四十年余り、日本の文化と美意識にすっかり魅了された由、この間、訪日すること五十回を越えるに及び、日本の文物、作品の収集を行って来たと申します。そして、その中で肉筆浮世絵に出逢い、それも1990年代からコレクションの対象を加えるようになって、それらが多数集積、百点を大きく越す今次の展示に繋がって行ったと聞きました。この間、ワトソン氏は財団も形成、斯くて、そのコレクションは膨大で、実質個人のものとしては、質・量とも世界有数のものに育っていると申します。
3 版画である錦絵と一品毎の肉筆浮世絵
偉人や権力者等を描く作品や宗教画などと違い、現世の姿・実相を描くのが将に「浮き世の絵」つまり「浮世絵」の始まりと申します。そして、それには沢山刷られる版画の錦絵だけでなく、画家自身が筆を取り、一枚毎別々に描いた物があることを、今回あらためて認識しました。そうした作品を「肉筆浮世絵」と言い、多く作られる「錦絵」と区別する由です。ワトソン氏は、浮世絵の中でも、この肉筆物に多大の関心を寄せ、その収集家ともなったのです。版画で在る錦絵に比し、各々一点しか無い肉筆浮世絵は当然大変高価です。
4 先ずは上方で展開した浮世絵・・屏風に現れた、むき出しの奈良の大仏
展示の第一号は、大きな六曲一双の「京・奈良名所図屏風」でした。寛永~正保年間(1624~47)作となっていまして、「無款」です。でもこの屏風は、それまでのような、大名などの権力者からではなく、民間の富裕なる人からの注文を受けたものとみられ、その景観も京都や奈良の名所・旧跡を描いています。この作品が、賑やかな、この浮き世の実相を書写している事こそ、「浮き世の絵」の始まりの象徴になるとの事で、第一号の展示品となったと思われます。
ただ、描写の仕方は大画面で、各所を雲を浮かべて配置しているのは旧来通りです。注目されるのは、その中の右隻の中段の左寄りに、吹きさらしの「奈良の大仏」が描かれていることてす。天平勝宝年間の752年に開眼成った大仏(盧舎那仏)は、その後二度に亘る兵火で焼かれ、17世紀の往時は大仏殿も無く、大仏の頭部は銅板で仮復旧されたままであった由、その雨ざらしの状態で数十年過ぎていた頃の様子が、この屏風に描かれている事になるようです。浮世絵の展示で、「奈良の大仏」にお目にかかるとは驚きでした。
因みに、その後、貞享元年(1685年)に江戸幕府から大仏再興のための勧進が許可になり、再興が始まって、元禄4年(1691年)に竣功、そして宝永6年(1709年)に大仏殿も落慶したと言われ、それらが今日の姿でもあるとのことです。
5 江戸で開花、浮世絵師の確立 「祖は菱川 師宣」
さて、この17世紀には、上方での風俗画の興隆が終盤となる一方、江戸では「菱川師宣」が登場、肉筆画と版本などを精力的に製作、「浮世絵師」を職業として確立し、「菱川派」を早くも形成していました。展示では、菱川師宣の「江戸風俗図巻」が往時の様子を良く伝えていました。その図巻は全紙幅を使っている描き方で、最初の屏風にあった様な「雲」は全く見あたりませんでした。つまり日本の絵画の画風が変わり、浮世絵が時の特徴となる時代へと入ったのです。
この頃、「古山師政」と言う菱川から分派を形成した絵師がいますが、その「遊女と禿の羽根突き図」という作品が展示されていました。ここに「禿」とは、「かむろ」と読み、遊女の見習いである女の子をことを指す由です。遊里とは分からない世界ですね。
6 数多くの作品と美人図の共通性
この後、更に章立てを五つに分けて、所謂「美人画」を中心に、展示が続きました。将にワトソン氏の強い関心、理解の深まり、知識の裏付けを得た愛着などが支えとなって、包括的なコレクションを作って行ったのだと思われます。展示されている、著名な浮世絵師を挙げて行けば、西川祐信、宮川長春、宮川一笑、勝川春草、喜多川歌麿、歌川豊春、歌川豊国、歌川国貞、葛飾北斎、祇園井特、小林清親などなどです。
この中で、喜多川歌麿を例に取れば、この著名な浮世絵師は二代に亘っていますようで、何れの作品もコレクションに入っていました。ただ、この二人は親子では無く、初代に弟子入りしていた絵師が、先代が亡くなった後、入夫したと言う関係の由です。また、歌川豊国も二代で続いています。
ところで、この数多のコレクションを鑑賞して総じて言えることは、敢えて記しますとと、「美人画は細目の美人」と言う事です。つまり、皆似たような感じがするのです。所謂個性派の美人はいません。モデルが各々違うのに、また、描き手が異なるのに、なぜ同じようになるのでしょうか。「浮世絵と言えば、斯く描く」と言う様な決まりや約束事があるのでしょうか。それとも御化粧ゆえでしょうか。大いなる疑問として残りました。御教示頂ければ幸いです。
7 幾つかのポイント 以下、印象に残った点を中心に若干記します。
1) 細目では無い娘
所謂美人画が押し並べて細目なのに、そうでない例が、初代歌川豊国の「時世粧百姿図」の中の二十四葉の中に一つ在りました。若い娘が、美人の師匠から、三味線と歌を教わっている場面で、大声で稽古している所でしたね。くるりとした可愛い表情をしていました。
ほかに、鍾馗や奴などの男も、太目に描かれ、特徴があり、明らかに違う人との印象を持ちました。各々個性に溢れているのです。
2) 夜鷹
同じ作品集に、何と夜鷹(辻君とも言う)が出て来ます。吉原に居るような公 娼では無く、自営でござを敷いて客を取ったと言います。河原沿いに二人描かれていましたが、みすぼらしく無く、いずれも細目の美人でした。
3) 品川宿の遊里の女:入れ墨を消そうとしている
また、そのほか、品川宿に在った遊里の猥雑な様子を描いた一葉が面白いと思いました。何人かの美人が思い思いの姿で何かをしている中に、一人、右腕に彫られた入れ墨を消そうと、女が灸を辛抱して、煙の立っている場面が描かれていたのです。
こんな所まで、浮世絵師は入れたのですね。
4) 雨乞い小町図
歌川豊春の、この作品は、十二単とおぼしき着物を身につけた「小野小町」の雨乞い の姿を描いていますが、所謂「小倉百人一首」のお姫様の原型を見たような気がしま した。 あの歌留多取りに出てくる絵の元は、やはり浮世絵にあるような感じがしま す。
5) 美人戯犬図
藤麿のこの作品には、着物を踏んづけて、美人を困らせる犬が出て来ます。注目されるのは、この犬が和犬つまり日本固有の犬で無い事です。所謂「狆(ちん)」ですね。これで、江戸時代にこうした犬が飼われていた事が知れますが、それは、もとコカスパニールという犬種で、日本には南蛮渡来の頃に入って来たと見られます。良く分からないところが在りますので、御示唆下されば有り難く存じます。
6) 最後の浮世絵師
ジャポニズムと言われ、日本の文化や伝統は、十九世紀から二十世紀にかけて、欧米 の文化・文物に大きな影響を与えましたが、浮世絵について言えば、明治の近代化と ともに衰微しました。その頃、最後の浮世絵師と言われたのが、大正の初めまで生き た小林清親でした。その作品二点がコレクションより展示されていますが、その内、 一点は「頼豪阿闍梨」と言う物で、美人は全く出て来ません。 これが今展示の最終の 一つ前と言うのが興趣を醸し出しています。
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