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「毛沢東 日本軍と共謀した男」と言う著作

2015.12.23 Wed
政治

この程、関心があって、この著作自身に中国研究の第一人者と銘打たれた「遠藤 誉 (ほまれ) 筑波大学名誉教授 理学博士」の表題の本(新潮新書)を読みました。やや粗っぽいところがあるものの、結構訴えて来るものがある著作でした。

この本に係る記事を目にしたとき、最初に想い出したのは、佐々木更三氏(明治33年~昭和60年 当時 日本社会党委員長)が、昭和39年(1964)訪中して毛沢東中国国家主席兼共産党主席に、他の社会党代表団ともども会見した折り、「日本が侵略した事」を佐々木氏が「申し訳なかった」と詫びたところ、「何も謝罪することはありません。我々は皇軍の力無しに、中国統治の権利を奪うことは不可能だったでしょう。」との趣旨の事を述べ、むしろ「皇軍に感謝しています」と言ったというお話です。そして、毛沢東は、こうした言を色んなところで連発していたと言います。

これらの発言について、中国では誠に苦しい解釈をしているようですが、著者は「日中戦争時代から始まり、毛沢東の日本軍との共謀と協力の意思は一貫しており、むしろ非常に正直である。」とずばり記し、その意義を正面から是認しています。

遠藤氏の著作で迫力があると思われるのは、先ず、この点です。この有名な毛沢東の繰り返された発言を単に、その場で聴かれた言に留めず、長年の事蹟、著作、文献、記事などを渉猟し、裏付けを取って、毛沢東と言う人物の「帝王学と戦略と戦術」を明らかにしていることです。その描出は広範囲且つ多岐に亘りますが、本書自体が新書版で、どの書店にも置かれ、しかも読みやすい物ですので、御関心のある方には、御自身で是非手にされるのが良いと思います。以下、イントロとして御役に立てばと考え、若干記します。
幾つかのポイント

1 毛沢東の台頭 孫文や蒋介石などとの関係

1911年辛亥革命が起き、清朝が倒されます。それを主導したのは孫文で、その政治勢力は中国国民党でした。その下で「中華民国」が翌1912年始めに建国されます。その後、紆余曲折があって、1921年には中国共産党が結成されます。しかし、往時の国民党員は十三万から十四万人も居たのに、共産党員は僅か五十名程であったと言います。ただ、毛沢東は、結党大会に「長沙」の代表として出席しており、やがて頭角を現します。

その頃、ロシア革命(1917)で出来たばかりのソ連は、コミンテルンを結成、その一環として国共合作(中国国民党と中国共産党の連携・協力)を提唱し、孫文を説得して、遂に同意させます(孫文・ヨッフェ宣言)。これが所謂第一次の国共合作と言われる由、この合作でともに戦う相手は、群雄割拠している中国内の軍閥と、それらに繋がる帝国主義各列強とされました。これを受けて、中国国民党の第一回大会が1924年に広州で開催、孫文の言う三民主義を基本としつつ、連蘇(ソ)容共、扶助工農を重点とした党綱領を採択します。この大会には、共産党員も個人の資格で参加、毛沢東は積極的に発言し、何と
中国国民党中央候補執行委員に選ばれています。毛は将にコミンテルンの指示を地で行って、国共合作を実践していたのです。

このコミンテルンが領導する国共合作(第一次)は、弱小の共産党が強大な国民党に寄生して、内部から切り崩し、宿主の中で大きく成長しようと言うものと言われ、著者に依れば、「ヤドカリ」戦略と呼ばれた由です。

その中で、孫文は、日本の陸軍士官学校で教育を受けるなど軍事に詳しい蒋介石と日本で知遇を得、その人を重視した人事を進めていきます。国共合作の方針の下、蒋介石は孫文の指示で、1923年モスクワに派遣され、赤軍の軍制視察を行います。だが、これは蒋介石をして共産党を警戒する切っ掛けになったと言われます。また、蒋介石はソ連の領土的野心も覚知します。即ち、ソ連即ちコミンテルンは「三民主義を支える」などと綺麗事を言っているが、内実は中国国民党を利用して、共産党を強大化させようと目論んでいることを見抜くのです。斯くて、直感の鋭い蒋介石はコミンテルンの「ヤドカリ戦略」に気付き、孫文に進言します。しかし、事態は既に深みに入ってしまっていて、その内に孫文が死去してしまいます(1925年)。
2 その後、紆余曲折を経て、国共合作は解消、中国内に様々な対立と抗争を抱えながら、日本などの出兵・干渉を受けつつも、蒋介石主導下の国民革命軍による中国の統一・平定は進展し、一応完成したと言われます。それは1928年6月の張作霖爆殺事件の結果、息子の張学良が父親の「日本軍にやられた」と言う最後の言葉を知って、蒋介石との協力関係に踏み切ったからとされています。

一方共産党は、次第に国共合作が不調となる中、各地で反共の蒋介石指揮下の国民政府に対抗して、武装蜂起を行うようになります。その中で特に有名なのが、1927年に起きた南昌暴動で、それは共産党を名乗ったものでは在りませんでしたが、蜂起のあった8月1日を同党の軍隊である「紅軍」(後年「人民解放軍となる。)の健軍記念日としております。しかし、これらの蜂起は、圧倒的な国民政府の官憲や軍隊の前に、どんどん潰されてしまいました。

かくて、始まったのが所謂「長征」と言う大逃亡の旅で、1934年から1936年に掛け、西へ北へと、一万五千kmもの距離を徒歩で、国民政府軍と戦いながら、移動したのです。これは、もとはと言えば、中国の共産党勢力を残存させるため、場合によってはソ連領内に避難させる意図もあって、コミンテルンの指令で開始されたと言います。着いたところは「陝西省延安」で、そこまでは国民政府軍も来ないし、まして抗日の前線は無かったのです。でも新たな革命の根拠地となりました。

さて、この間、毛沢東は、中国が、既に共産党の統治下にあったソ連と異なり、都市化しておらず、人口の圧倒的多数が農民である、その現状に良く合うよう、「マルクス主義を中国化した。」と言われます。それは以上で記した、蜂起や長征などの経験や教訓から良く汲み取れると言います。だが、戦後の四年間、共産党の統治下に入った「吉林省長春」(旧満州新京)で少女期を過ごし、共産主義教育を徹底的に叩き込まれた著者の見方は、更に突っ込んだものです。要は「その思想は共産党が統治権力を奮えるよう、あれもこれも正当化するもの」であり、もっと有り体に言えば、それは「毛沢東が独裁者として一切を思い通りに出来る体制を整えるための手段と方便である。」と言う趣旨の強い印象を記しています。

関連して著者は、毛沢東が中国歴代王朝の皇帝の中で最初の、「漢」の前の「秦」の始皇帝に最も敬意を払っていた旨を記しています。実際、自ら極端な個人崇拝までを押し進めた毛沢東に、自身を帝王に擬する意識がなかったと言えば、嘘になるでしょう。また、毛沢東思想と言う呼び方自身に、当人死後も否定されず、崇拝される永遠性を志向していた感があり、現に毛沢東は1940年の事ですが、「延安」で「王明」と言う幹部にそうした趣旨の事を語っている由です。
4 毛沢東の主導権の確立、その下での国民党体制の打破と共産党体制の形成を狙う

長征中、この毛沢東の主導権が確立される会議が貴州省遵義県(現遵義市)で開かれます。それは1935年初めの事で、遵義会議と呼ばれています。

この会議では、博古らソ連留学組中心の指導部が失脚し、周恩来を軍事の最高指導者とし、張聞天を党中央の日常業務の責任者とする新指導部が発足します。だが、まもなく、周恩来は五年年長の毛沢東に最高軍事指導者の地位を明け渡し、ここに毛沢東の実権体制が確立します。かくて、毛沢東の戦略と戦術が存分に発揮される時が遂にやって来たのです。

毛沢東の最大の狙いは、蒋介石率いる国民党の体制を覆し、中国全土を共産党の支配下に置く事でした。そのためには、将に手段を選ばぬ方法、方策が採られます。一環として、抗日の方は一般の農民に向けて、「日本帝国主義打倒!」と言葉の上で激しいキャンペーンを粘り強く張り、浸透させて行きますが、武力対決はぐっと控えられました。毛は「兵力の一割に留めよ。」と言うのです。実際、日本軍と紅軍(共産党令下の軍隊)との戦いは少なかったのです。

順に記せば、まずソ連側のスパイ・ゾルゲなどによる工作の効果もあって、西安事件が起き、国民政府の蒋介石が監禁されて、抗日体制が第二次国共合作によって形作られます。これにより、抗日前線の正面に立つのは、国民政府の軍隊となりました。対して、八路軍や新四軍と言われた紅軍は、日本軍と対峙する前面には出て行かないよう、抑制的に運用されるように注意が払われたと言います。そこに毛沢東の巧みなオペレーションがあります。

他方、第二次国共合作の効果で、国民政府軍に係る様々な情報が共産党側に入って来ましたから、それらは秘密裏に日本軍側に流されました。日本軍側は、これで戦う相手のことが分かるわけですから、その効用も在って戦況を有利に展開出来たのでしょう。当時「日華事変(日中戦争)」と言われた戦争は概ね日本側の連戦・連勝で推移したと言います。斯くて、いずれ共産党・紅軍の敵となる、蒋介石令下の国民政府軍は、日本軍の手で叩かれ、弱められた分けです。

そして、中国共産党側は、提供した国民政府軍側の情報の対価を日本側から得ていたと申します。それは結構な金額に達し、何かと役立った由、恐ろしくちゃっかりしたものです。でも、こうした工作に当たった中国側の人物群は「藩漢年」など概ね特定されている由、しかし、皆、処刑されたと言います。ここらが毛沢東の大変怖いところですね。
日本側にも岩井公館と言われる然るべき工作従事者が居た所がある由です。その人の書いた本も在る事が著者の本に記されています。
関連して、南京大虐殺など

他方、これは1937年(昭和12年)に起きたとされる事件ですが、未だに真相が分からないことが多々あります。ただ、一つはっきりしている事は、この件を毛沢東など当時の中国側が取り上げなかったことです。その頃、毛沢東など共産党の指導者達は延安にいて、国民政府側で起きた事には関心が無かったのでしょうか。著者は、当時の事を日本を非難するため問題として持ち出すと、当時抗日の主体となっていた国民政府側を持ち上げることとなり、共産党側には有利にならないと考えていた様だと、著者は見ています。何かと実に複雑ですね。
江沢民という人の持つコンプレックス

この人は中国で、反日教育などに大変熱心な指導者として知られている幹部で、共産党総書記として中国トップまで上り詰めました。そうした事は、この人が鄧小平によって指導部に引き上げられた時に始まっています。なお当人は存命で、去る9月3日の大規模抗日軍事パレードで天安門上に立っていましたね。

では、何故、この江沢民が反日教育やキャンペーンに熱心なのか、その分けを著者が記しています。世の中には、事情に通じて居る人っているのですね。実は、江沢民の父親と言う人は、1940年(昭和15年)に出来た汪兆銘国民政府(親日派)の幹部だったのです。江沢民は、常日頃、その事に引け目に感じ、それで何かと反日を前面に出したがったと言うのです。個人のコンプレックスがそういうところに現れると、権力者の場合、困りますよね。
毛沢東は何人の中国人を死に追いやったか?

著者はこの趣旨の問いを巻末に掲げ、その推計をしています。それに依れば、その数は少なく見積もっても七千万人に達するだろうとのことです。そして、「古今東西、人類史上、ここまで多くの自国民を殺した(著者は、この言葉を用いている。)者は、毛沢東をおいてほかにないのではないだろうか。」と記しています。

そこで著者が、事例として上げているものをお互いの認識のため書いておきますと、
それは現中国建国前の延安整風運動(1941~1945)に始まる由です。次いで、朝鮮戦争時に「三反五反運動」が起こされます。更にフルシチョフによるスターリン批判を意識して開始された、「百花斉放・百家争鳴運動」に端を発して、結局1957年の「反右派運動」に至ります。

翌年には、「毛自身なら出来る。急進的な社会主義路線を実践せん。」として、大躍進政策を打ち出します。数年して、使い物にならない大量の粗鉄と荒れ果てた田畑を招来、餓死者数千万人を出したと言われます。これで、毛沢東は責任を取って国家出席を辞任、
劉少奇が後を嗣ぎますが、やがて、毛沢東は奪権闘争を軸とした文化大革命を発動します(1966)。中国は大混乱に陥り、劉少奇は1969年に獄死します。それでも、なお闘争は続き、毛沢東が死去する1976年に漸く終焉します。その後、改革開放路線に切り替わった1978年に、文革について、幹部の葉剣英(往時は全国人民代表大会常務委員長で元首の役割を果たしていた。)が「共産党中央工作会議」の閉幕式にて、「文革により粛正された者一億人、死者の数二千万人」と発表しています。
毛沢東は功績七分、誤り三分

懸かる毛沢東ですが、著者によれば、「いまなお中国で、あこがれの神のごとき存在として崇められています。」

そして、引き続き天安門に大きな毛沢東の肖像写真が掲げられています。「これを撤去しないのか?」と西側記者に問われた往時の「鄧小平」はきっぱりと「そのまま」との主旨を答えています。確か、「毛沢東は誤りも犯したが、功績の方がなお大きいのだ。毛沢東がなければ、今の中国は無いと言える」と言っていたように思います。


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