京大総長と東大博士が語る 分野は人類学など
1 日本の人類学 東大対京大
取手駅前の書店を訪ねると、傑作なタイトルの新刊が置かれていました。「日本の人類学」という書題の「ちくま新書」で、帯の副題が、「東大VS京大」となっているのです。かねて人類学に関心がありましたし、東大対京大と言う副題も面白そうなので、早速購入し、間もなく読み始めました。
2 対談を企画、提案したのは、尾本東大元教授 分子人類学の巨頭
本書は、御二人の充実した対談集ですが、そもそも企画し、呼び掛けた人は東大人類学の大家「尾本恵市」博士で、それを受け、ともに大いに語った人が、「山極寿一」京大総長です。
平成26年4月1日、霊長類研究の泰斗である山極教授は京大総長に
選ばれ、就任します。その事は大変な話題となりました。
尾本博士によれば、御本人の業績や人格が評価されたのは当然としても、人類学分野の学者を「京大総長」に任命するとは、将に驚くべき事で、東大では先ずあり得ないと言うのです。
そして翌年4月、尾本博士は、京大総長室に山極先生を訪ね、表敬しますが、総長室には何と「ゴリラ」の写真が大きく貼られていたとのこと、これを見て、博士は両大学の違いを実感したと言います。 東大ならば、事務局の職員がやって来て、「この写真は困ります」と言って外したろうと思ったと、尾本先生は記しています。仮定の問いですが、東大出身で長年教授であって、その雰囲気をよく知
る先生自身ががそう言うのですから、其処は重みがありますね。 私は京大で学んだ者ですが、事情に通じているわけではないものの、或る程度察しがつきます。
なお、山極総長は昭和27年生まれの由、私より八年後輩になり、自分も歳を重ねたなと思いました。
3 本新書の数多い諸テーマの中で、人類学の成果として、成る程と思ったこと
第一に、 「ヒト」即ち「ホモ・サピエンス」の拡散
対談中、興味ある所が多々在る中で、「これは」と思ったのは、学問上の呼称として「ヒト」と呼ばれる種、つまり「人間」の「他の動物と大きく異なっている特性」が、ひとつの種でありながら、世界中に分布している事と言うのです。
これは、先ず山極総長が言っている事ですが、続けると、「生物的な遺伝の形質がほとんど変わらないのに、ヒトが寒帯から熱帯に至るまで何処にでも住むことが出来る」と言う事です。そして、その分けは、「環境状況を緩和するような衣服・家などを持ったためである。」としばしば言われます。
しかし、山極総長は更に大事な言葉を継ぎます。「それより前に、ヒトには認知的な変化があったと思うんです。」 それは要するに、「人間に新しい環境に積極的に出て行くと言う特質が備わった。」と言う事と申します。
総長はもっと語ります。「動物は保守的ですから、普通であれば新しい環境に出て行こうとしない。・・・(だが)人間の場合はそうではない。・・・古いものを捨て、新しい環境にどんどん進出していく。このような野心、機運は他の動物(注 ゴリラ・チンバンジー・ボノボ、オランウータンなどの類人猿を含む)にはない性質であり、ヒトの大きな推進力となった。これがヒトの生物学的性質を均一に
しつつ、様々な環境に適用させるような文明を生んだ。・・・この場所にないものが新しい環境にはあると予想して、未知の場所へと進出していく。・・・人間はいつの頃にか、そういった野心や挑戦意欲を持つようになったのです。
ここまで聴くと、尾本教授が言葉を返します。「実は私も同じような事を考えています。」と。 そう言いつつ、ただ、「具体的なデータをもっていません。」と話を続けます。そして、「約七百万年前に、共通祖先から別れたチンパンジーとヒトであるが、その後、前者には形態や行動には余り変化が無かったのに、後者には非常に大きな変化が起きた」と語り、「なぜか?」と重大な疑問を提起
します。
そして、「原因はまだ明からになっていないものの、約五~六万年前に、ヒトは発祥の地アフリカを出ました。」と尾本教授は語ります。
その個体数は少なかったと謂われるものの、「五千人とも一万人とも推定されている」由です。 この文脈から見て、こうした集団は、単純に一、二個と言わず、相当数各地で順次生じたものと読み取れます。
そして、その後、それまでのヒトに見られなかった特徴を各々現し、世界各地に、其処のあらゆる環境に適応しつつ、広がって行ったと言うのです。適応には、遺伝と文化の両方があったと思われます。
かくて、今日見られるように、世界は、肌色、人種、民族、習俗、言語、宗教、信仰、生活様式など極めて多種多様な現代世界となったのです。されど、生物の種としては同じ「ヒト」一種です。
4 次の特性として、音声や歌のことに触れます
ヒトが持つ特性として、大変興味深いのは、音声や歌を活用するようになった事です。本新書を読んで、音楽が斯くも本質的な人間の特性・特質を有している事には、驚かされました。
その始まりは、まず、直立二足歩行に在る由です。ヒトが四脚でなく、直立し、二足で行動するようになると、喉頭が下がって
口腔内に空隙が出来、声を出せるようになりました。
つまり、言葉が生まれる前に、多様な音声を発する事が出来る装置がヒトに整ったのです。 二足歩行が出来、しかも喉頭が下がっていますから、ヒトは、常時音声を発することが可能となりました。 よって、言葉が形成されなくても、先ず音声で、つまり、発声と音楽で、ヒトはコミュニケーションが出来るように成ったわけです。これは極めて大切な事でしょう。
更に、二足歩行が出来ると、上半身が自由になります。音楽の大事な働きは同調です。身振りと手振りで、相手の動きに合せられます。高くなった腰の位置が支点となって、両半身が同調しつつも、別々の動きを可能ならしめ、これでダンスが出来るようになります。 ダンスや踊りが可能となれば、感応もし易くなり、ヒトは、音楽的な身体となります。即ち共感しやすくなるのです。
そして、この音声は、共同保育を育児の大事な方法とするヒトを大いに支え、助けます。ヒトは発祥以来、お母さんと赤ちゃんだけで無く、周りの大人を巻き込んで保育して来ました。 つまり、共同保育です。 其処では、母親の声を聞いて赤ん坊は意味が分からずとも安心します。 その音調は、どの民族でも良く似ている由です。 斯く、子守歌は音楽の起源と言われます。むずかる赤ん坊に
発せされていた音声が、大人の間に広がり、その心を同一化させるような働きを持って普及した、つまり音楽が其処から生まれたと考えられると言うのです。
かように、本書には次々と、面白く、知的な記述が続き、展開していきます。
5 お二人の語る東大と京大
山極総長は「東大(明治十年設立)には日本の政治を背負って立つ官僚をつくると言う目的があった。 ですから、京大(明治三十年設立)をつくるとき、敢えてアンチ東大をつくろうともくろんだ節があるんですよ。 西園寺公望は明治二十七年から二十九年まで文部大臣を務め、京大の設立に関わりました。彼はその十年に亘るフランス留学経験から、フランスの自由平等の思想を良く知っていたのです。」と語っています。
これを受けて、尾本教授は、「いい話を聞きました。京大がアンチ東大とはうすうす感じていました。 でもお互いに良いところは評価し合っています。」と応えています。
と言いつつも、「違うところがいいのです。 京大が東大と同じだったら、がっかりします。」と付言し、更に、「ある意味で東大があったから、京大の発展もあったわけで。京大が先に出来ていたら、どうなっていたかわかりませんよ。」
と面白い仮定の発言をされています。
斯くて、これ以上書くと、エンドレスとなる観がありますので、拙文はこの辺りで閉めます。
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面白いですね。
東大のおかげで京大ができた?
じゃあ、京大が東大よりもノーベル賞を多く貰ったのも彼らの力かな。
でも東大が国家官僚制度を造りその影響で、国民が悲惨な戦争被害を被ったことは関係ないと言われるのですかね。