西洋人が入るまでの南米:アンデス文明
平成29年 2017 11月3日
仲津 真治
上野の国立科学博物館で、「古代アンデス文明展」をやっていますので、関心があり、鑑賞して参りました。 現実に遠い南米まで行くことはあるまいと思い、せめて展示でも見ておきたいと考えた面もあります。 幸い、会期の初期であり、平日でもありましたので、混んでおらず、ゆっくり目に見学出来ました。
私にとって、こうした博物館の展示では初めてですが、ペルーからのインディオとおぼしき参観者がいました。受付の人に聞くと、この展示が始まってから、時折、見かけるとのことでした。矢張り、ペルーやボリビアなど母国のことがテーマですから、足が向いたのでしょう。
以下、幾つか印象に残ったことを記します。
1 人類拡散の道、アンデスへ
研究・調査が進んだからでしょう、凡そ、一万五千年前に人類・ホモ・サピエンスが南北アメリカに進出したと、断定的に記されていました。東アジア集団や、ヨーロッパ人を共通の祖先とする人々が、約二万三千年程前に、ベーリンジアに到達、当時陸地化していた海峡付近に定着し、他の集団と隔離されて約八千年間同地で暮しました。 その後、そこから彼らは先ず北アメリカ大陸に入りました。
この中から、北米大陸に限って居住した人々と、南北アメリカ大陸にして共通して分布する集団に分かれました。約一万三千年前の事です。さらに、太平洋の海岸沿いに南下した集団の中からは、南米大陸の最南端に到達した者が表れました。約一万四千五百万年前のこととされます。
いずれも、ゲノムの調査・研究から明らかになったと申します。 アフリカ発祥以降、各大陸などへのホモサピエンスの流れついて、様々な学説が唱えられて来た分野ですが、どうやら結論が出たようですね。諸調査と研究の成果でしょう。
2 南米への人類の進出・移住に伴い、次第に起きたこと
遺跡、遺物に乏しく、また結局文字を生み出さなかったゆえ、記録が少ない南米ですが、約一万五千年前から徐々に、生存・生活と諸活動が行われ、経済が生まれていきました。それは、南米大陸の地形と気象を生かした 「標高の異なる複数の生産地を同時に利用した自給自足経済」の形成です。
平均六千メートルのアンデスの連なる峰々、海岸沿いの低地と乾燥地、アンデス東麓とアマゾンの湿潤地などなど、変化に富んだ多様性ある環境を反映し、活用した暮らしで、それは各地域に住みついた始めの頃から発祥したと見られています。
遙か後年、この地に姿を見せたスペイン人が、「良くこんな高低の多いところで、結構大勢の人が存命し、暮している」と驚嘆した由、それは南米アンデス文明の地道ながら、偉大な成果と言うべきでしょう。 特に、旧大陸には無かった、じゃが芋やトウモロコシは優れた農作物で、やがて、旧世界の存続と発展にも大きく寄与します。
3 生まれた文化の数々
この結果、紀元前一千年辺りから、古代文明と呼べるものが発祥、紀元後千五百年辺りまで、色んな文化・文明が各地に生まれ、栄枯盛衰を刻んでゆきます。 その数、初期のチャビン、中期のナスカ、終期のインカなど十八個に及びます。
このうち,中期の「ナスカ」はハチドリや蜘蛛などの巨大な地上絵で有名です。相当高い上空からしか姿が見えないので、描かれた理由・目的として、空の視野からの見方が論じられて来た由、ただ、今日では付近のひどい乾燥(年間十ミリ程に過ぎない降雨量)に注目し、人々が雨乞いの儀式として整然と行進するため、平らな土地と石組みを並べたのではないかという説が有力になっていると聞きました。 それにしても本当に謎めいた巨大絵です。
また、後期直前の「シカン」は、南米の諸文化では珍しく、金属類の遺物を多種擁していた特徴がある一方、日本人考古学者の発見になる事で有名の由です。 我が国も、明治以降の近代化で、懸かる成果を生んでいたのですね。
最後に栄えたインカ文明は余りに有名ですが、アンデス文明全体を統一し、南米
を広く支配下に置いたことで知られます。その統治の有力な手段が道路交通網であるインカ道で、幅約一メートル、アンデスの山地を南北中心に伸び、総延長約四万kmに達したと言います。 ただ、彼らは遂に車の工夫発明には到らなかったようで、移動は歩行などが主体でした。 車と文字の欠如、それはアンデス文明
に共通する欠陥でしょう。
とは言っても、どの文明でも、他と没交渉であれ、古代文明の水準を達成すると言う例証を示したのが、インカであり、中米のメキシコ文明等であると、学校で教わりました。 この認識の鮮烈さは、歴史を学ぶ意義と言えると思います。
4 インカ文明の崩壊と大量の金・金製品の流出
大航海時代を迎えつつあったヨーロッパの中で、スペインなどが新大陸に進出し、やがて、インカの地にやってきました。コロンブスの発見後、四十年程して、その事変が起きました。
1532年、ピサロの率いるスペイン軍が、インカ帝国と遭遇、巧みに接近し、その皇帝アタワルを捉えています。 その直前、初の会見の折り、ピサロ一行は甲冑を帯び銃を所持していたとはいえ、僅か168名であったと謂われ、対するインカの軍勢は二万余の大軍であったと伝わります。 幾ら近代装備で身を固めていて、相手方は石斧で武装した程度と言っても、この兵力差は大きすぎます。よって、何故、アタワル皇帝が捕縛されたか謎とされているようです。
一説には、交渉の遣り取りの中、ピサロ側が大砲を発射、その轟音と強烈な破壊にインカ側が驚き、圧倒されたからとも言いますが、この展示ではそうした説明もありませんでした。
ともあれ、アタワルは捕まり、幽閉されます。 アタワルはピサロに命乞いをしたと言います。 するとピサロは、条件を持ち出します。「ならば、金 きん を差し出せ」と言う分けです。 斯くて、夥しい金がピサロ側の手に渡ります。 解説によれば、これが今日インカやペルーに金や金製品があまり無い理由と申します。
エル・ドラドつまり黄金郷と謂われ、欧州人が憧れた、彼の国は斯くて実質失われたと言うのです。
そして、アタワルは翌1533年処刑されます。 要はアタワルは騙されたのです。ピサロは始めから約束を守る気など無かったと思われます。
5 傀儡体制の暫時存続
インカの皇帝がスペイン側に取り押さえられ、また処刑されるなどしても、支配の実権がスペイン側に移りながら、傀儡のインカ体制が暫し続きました。その一方でインカの反乱も起こりました。
されど、1581年、インカの最後の皇帝「アマル二世」が処刑され、インカ側の抵抗は終演し、アンデス古代文明は滅びます。
その後にリマを首都とするスペイン側の体制が築かれました。 その街並みは、中米メキシコ・シティーに建てられた街と良く似ています。
6 空中都市「マチュピチュ」の謎など
インカ帝国が無くなり、歳月が立ち、スペインやポルトガルが支配した中南米の体制に変わり、それもその後一群の独立国に発展を遂げても、かのインカを知らしめる存在が残っていました。
その典型はかつてのインカの都「クスコ」であり、その石造の街並みです。紙一枚も挟まないという、その精巧な石作りに、圧倒されます。 古代文明のインカは、相当力に欠けた文化文明であっても、何かに優れたところのある文化文明であったと思わずには居れません。
そして、それを象徴するような古代遺跡が近年発見され、世界の一大注目を浴び、世界遺産となりました。即ち、「マチュピチュ」の空中都市です。展示の映像では、其処は、乾燥と寒冷のアンデスと、湿潤のアマゾンを繋ぐ交流の場であったと解説していました。 その意味は何か、それは未だに、謎だらけの空中都市のようですが、解明が待たれます。 何故か、その存在は支配者のスペイン側に知られる事無く、したがって破壊損傷もされず、生き残り、遂に世界観光の一大スポットとなったのです。
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