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よみがえれ! シーボルトの日本博物館

2016.10.01 Sat
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「両国」の江戸東京博物館にて、シーボルトの展示をしていると言うので足を運んで来ました。 幕末に日本と御縁があった有名なドイツ人ですが、良く分からない所が多々ありましたので、この機会に見聞を得ようと思い立ったからです。
1) 一連の展示の流れ

行って分かった事は、既に最初の展示が「佐倉」の国立歴史民俗博物館で行われていて、その後、この九月から十一月まで両国で開催中、ついで長崎へ巡回し、最後は大阪千里の民族学博物館でと言う一連の流れになっている事でした。この企画展示の全体の主体は国立歴史民俗博物館で、分厚い図録も同館監修となっていました。
2) シーボルトのコレクションの所在

ところで、これらのコレクションが何処に在るかと言えば、オランダのアムステルダム、ドイツのヴュルツブルク(シーボルトの郷里)やミュンヘンなどと言うことになる由です。それらは、日本に多大の関心を寄せ、二度に渉り滞在して、博物学の諸分野始め、実に日本に造詣の深かったシーボルトが、ヨーロッパに日本を紹介せんとする意欲を実示し、展開した場所を示しています。

現所蔵者は、まず、フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家となっていました。本人の名を継ぐシーボルト家となっていないので、分けを学芸員に照会したところ、多くのコレクションが、シーボルトの次女のヘレーネによって管理され、同女がフォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家に嫁いだからとのことでした。

でも、最大のコレクションはミュンヘンの「五大陸博物館」に在ります。何故か。それは、各地での日本コレクションの展示や紹介に熱心であったシーボルトが、それらを晩年、ミュンヘンを首都とするバイエルン王国に売り込んだからで、最後に国王ルートヴィッヒ二世がその購入を決断したと申します。それは、1867年のことで将に幕末でした。実は、シーボルト自身はその前年の1866年に亡くなっています。
3) ルートヴィッヒ二世と言えば、・・・

この人は、中世のお城の物語を夢見て、それを現実のものにせんと、彼の有名なノイーエ・シュバンシュタイン城を建てるなどのことで、最後に謎の死を遂げた、著名な人物ですが、シーボルトの日本コレクションの保管完遂に貢献が在ったとは知りませんでした。出費の肥大化を考慮しなかったとして厳しく非難されている国王ですが、シーボルトコレクションなどの博物学におおいに寄与したと言う面もあるのですね。

この「ミュンヘンの五大陸博物館」は、シーボルトコレクションを始めとして、その名の通り、世界の各大陸の特色ある文化・文物を収蔵、展示しているよしです。

また、シーボルトが現に取り組み、更に大規模化を試みていた、「ヨーロッパにおける日本博物館」には、アレクサンダー目録というものが登場しますが、これは、彼の二度目の来日に同行した、長男アレクサンダーにより作成されたものです。今回の展示にも示されていました。
4)  シーボルトの地位などと私生活

シーボルトは1796年生まれの、オランダ人ではなく、ドイツ人です。ただ当時は、ドイツの統一前でした。シーボルトは医学を志し、郷里のヴュルツブルク大学医学部に進みます。そこで博学の薫陶も受けたシーボルトは、1822年、オランダ陸軍の公募に応じ、オランダ領東インド(現インドネシア ジャワ)に同陸軍の軍医少佐として赴任、自然史研究を行います。 そして、翌1823年にオランダ領東インド総督の命を受け、長崎出島の商館付き医官として、初来日を果たし、日本との縁が始まったのです。

長崎では、医師の任の傍ら、いわゆるフィールドワークを行いますが、出島から外への外出は厳しく制限され、許されたのは幕府直轄領の薬草採取を名目とした調査のみであったと言います。

それでも、その間行われたと見られる植物や動物の調査・研究は素晴らしく、日本人絵師「川原慶賀」に描かせたあじさい、山吹などの植物や、伊勢エビ、甲蟹などの甲殻類にはその具象性・詳細性に圧倒されるものがあります。いわゆる大和絵や浮世絵が主であった往時の日本で、懸かる科学的描画を出来る絵師が居たとは驚きでした。日本人の
器用さを物語るものでしょうか。また、シーボルトが鯨漁に関心を持ち、「漁鯨之図」を入手していたのは極めて印象に残ります。捕鯨とは欧日に渡る漁業であったのでしょうか。
一方、私生活の面では、日本人のタキという人が出島への出入りを許され、シーボルトの日常の世話をするようになります。やがて、シーボルトはタキに好意を寄せるようになり、「お前を慕っている」とまでカタカナ書きで記しています。斯くて二人の間には女子が生まれ、その名は「イネ」と名付けられました。描かれた絵を見ると、利発なハーフの女の子の感じがよく出ています。彼女は「楠本イネ」の名で生涯独身でしたが、本邦初の西洋医学を修得した女医となります。

5) 特別の役割

加えて、シーボルトは、長崎奉行の特別の計らいで出島を出て、鳴滝という地で家を得、塾を開くことまで許されます。シーボルト自身の教育意欲と、日本人側の強い学習希望が結実したものでしょう。

また、1826年には、出島商館長の江戸参府旅行への随行が可能となります。これにより、道中の観察調査や多くの文物を収集する途が開けます。シーボルトのコレクションは大きく、その道を歩み出したのです。そこには、同行させた絵師川原慶賀の姿がありました。

また、漆製品や漆器を鑑賞したシーボルトはそれらを絶賛、日本は漆の使用や、その製品化で世界最高を極めているとまで言い残しています。それは、漆美術や漆器のことを英語ですが、japan と言うことに通じると思われます。 因みに、大名からシーボルトに贈られた漆器類も展示されていました。

なお、こうした調査研究や資料収集など諸々の事には、多大の費用が掛かったと思われますが、それはオランダの財政が陰に陽に支えたと見られます。そこには、オランダ東インド会社の存在があったと思われます。
6) シーボルト事件

恵まれた国・日本をヨーロッパに、世界に良く紹介するには、その位置や形をきちんと知らせる必要があります。特に、良く分からなかったのは北方と日本の関係でした。

斯くて、シーボルトは日本地図の入手を強く欲しました。それには高橋景保という人物が応えました。そして、その頃、出来上がっていた伊能忠敬の日本地図をもとにせる特別小図がシーボルトに渡され、彼自身によって密かに写されたのでした。今回の展示でそのことが実示されており、迫力がありました。状況と諸証拠は、たまたま手に入ったというようなものではなかった事を明示していました。

1828年事件が発覚、厳しい取り調べが行われます。オランダ商館付きの医師であったシーボルトは国外追放となり、日本側の高橋景保は獄死します。

7) ヨーロッパ帰任後熱心に日本紹介、そして実に三十年後再来日

こうした事を起こしてしまったシーボルトですが、ヨーロッパ帰任後も、熱心に日本の紹介と研究に努めます。本当に日本に惚れ込んだのでしょう。そして、再度の来日を強く希望し続けます。

三十年後、1859年日本が遂に開国します。シーボルトの追放処分も解けました。そして今度は、オランダの商事会社の顧問として来日、息子のアレクサンダーも同行し、来日後、駐日英国大使館に勤務します。国が違ってもこういうことは可能のようで、外交官の世界とは面白いですね。

シーボルトの精力的な調査研究や資料収集は、その後約三年続きます。今回は民間ながら、なおオランダの立場でした。一方、徳川幕府もなお存続していました。そして、明治政府が出来る前の1862年、シーボルトは幕府との縁を保てなくなり、帰国することになりました。既に膨大なコレクションを集めており、将軍から太刀一刀まで賜っていたものの、なお思いを残したままの帰国でした。今度の行き先は、ドイツはバイエルンのミュンヘンで、その四年後の1866年、シーボルトは残念ながら、亡くなります。享年七十歳でした。 既述の如く、バイエルン王国によるシーボルト・コレクション買い取りの朗報は、その翌年にもたらされ、徳川幕府はその年に大政奉還を迎えます。時代は大きく画されたのです。

それにしても、四十年余、斯くまで日本に関心を持ち続けた優秀な人物が居て、多岐に渡る膨大なコレクションを残したことは、日欧ともに大変幸せであったと言う印象を受けますね。そのコレクションや出版が無ければ、それだけ、日欧ともに知られずに終わることが多々あったと思われるのです。


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