榎本武揚と国利民福 最終編二章-2-(3)海軍卿-続
改正官員録、明治13年3月(国会図書館、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779284)
・(続)榎本海軍卿、期間:明治13年2月28日―14年4月7日
榎本がウラジヴォストークから小樽に向け出帆する一ヶ月ほど前の明治11年(1873年)9月3日、近衛兵が反乱を起こしました。竹橋事件*などと呼ばれています。事件の様子をパークスは日記(p.257)に次のように記しました。
『日本軍の中の兵隊たちが騒動を起こすのではないかと、幾度も心配してきたが、こんどそれが実際に起こった。・・・砲兵隊の約百名は半蔵門を出て、天皇を「求めて」向かったが、皇居に着くと、負かされて降伏した。弾丸は大隈 [参議大蔵卿]邸と山縣[陸軍卿、西南戦争の勲功調査委員]邸は、幾度も攻撃された。両方の死傷者数は唯の三十名にすぎなかったが、何千人を殺すほどの弾丸が飛び交った。・・・日本の軍隊のような規律のない軍隊に反乱がおこるのは実に困ったことだ。』
*竹橋事件または近衛砲隊暴動と呼ばれる事件を指す。1878年(明治11)8月23日夜、近衛砲兵大隊の兵卒約200名が、西南戦争の賞典が無いこと、待遇悪化を不満として蜂起し、政策首謀者の大隈邸と山縣邸に無数の砲弾を浴びせながら、明治天皇に直訴しようとしたが、制圧された。しかし、蜂起した背景に地租改正反対一揆や自由民権運動の影響も指摘され、全容はまだ解明されていないとされている。(コトバンク『竹橋事件』)
竹橋事件は、昭和の二・二六事件を想起させます。パークスは日本国内がこのような情勢だから、明治新政府が条約を改正し、欧米と対等になることを望んでも受け入れられないのだと書きました。
山縣らが参謀本部を創設しようとした動機の一つに、近衛兵の反乱事件がありました。山縣は、陸軍は内乱を平定する戦争をしてきて、西南戦争をもって内乱は終結したと考えていましたが、次は軍隊内部から反乱が起きました。せっかく自分たちが戦火を経て王政復古したにも関わらず、今後、軍隊が革命思想家に利用され、軍隊内部から社会主義革命の蜂起が行われることを恐れ、陸軍を天皇直轄の軍隊にするべきだと、山縣は判断しました。
(井上寿一『山県有朋と明治国家』NHKブックス[1170]、2010)
パークスは近衛兵の騒動を取り上げ危なっかしい軍隊と陸軍を批判しましたが、川村海軍卿の海軍は薩摩に偏った人材登用をし、まともな計画を作成できず、おまけに規律すら守れない、だらしない海軍でした。
『明治5年兵部省が廃止され、陸軍省、海軍省が成立、海軍卿および海軍大輔不在のまま海軍少輔に任じられた。その後旧幕臣の勝海舟が海軍大輔、次に海軍卿になったが、主要ポストを薩摩系が握る中で勝は象徴的存在にすぎず、川村が海軍の実質的指導者として諸事を取り仕切った。 ・・・[西南戦争が終了した]翌11年勝に代わり[川村が]海軍卿となったが、このときも補佐すべき海軍大輔、少輔が欠員のままであり、勢い川村の独断専行が批判されるに至った。特に薩摩系の重用、ずさんな計画、海軍省内の遅刻の常習などが目に余り、13年伊藤博文、山県有朋らの画策で[川村海軍卿は]更迭され、榎本武揚が後任となった。だが薩摩系軍人が榎本を忌避し続けたため、14年返り咲き、・・・、18年伊藤内閣が成立すると海軍を離れざるをえず、・・・』
コトバンク:田中宏巳「川村純義」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版、1994 <参考文献>田村栄太郎 『川村純義 中牟田倉之助伝』
明治11年10月21日に榎本は帰国しました。同年12月5日に、山縣有朋らは参謀本部条例*1により、陸軍省から参謀局を独立させ、天皇直隷下の参謀本部を発足させました。陸軍職制の第一条、『帝国日本の陸軍は一に天皇陛下に直隷す』はドイツ帝国憲法のコピーでした。第二条の参謀『本部長の職務は帷幕*2の機務*3に参画』するとあり、戦時下、陸軍への命令(軍令)は参謀本部長が親裁(天皇の採決)の後、発することになりました。
*1 アジ歴グロッサリー https://www.jacar.go.jp/glossary/term4/0010-0030-0020.html
*2 いあく《昔、陣営に幕をめぐらしたところから》作戦を立てる所。本営。本陣。(コトバンク)
*3 きむ 非常に重要な機密の政務。(コトバンク)
桂太郎(1847-1913)は、明治8年1月、ドイツ公使館附武官として渡独し、軍政調査、軍事行政研究に没頭し、明治11年7月に帰国し、9月に陸軍省第一局法則掛になりました。陸軍の参謀本部構想作成と実現には桂太郎の調査と研究成果が活用されました。一方、海軍でも黒岡帯刀*(1851-1827)は、明治14年1月から16年6月まで在英公使館付武官(初代)として、川村に英国海軍制度の調査研究を報告し、海軍参謀本部設立に貢献しました。
*くろおかたてわき 黒岡家は島津氏の一族。海軍操練所卒業後、英仏留学。明治6年、海軍少尉として任官し、明治8年に中尉になり、ウラジヴォストークに派遣され、沿海及び朝鮮国境のロシア領を偵察。明治33年北清事変で天津での画策で功績、中将、貴族院議員。勝海舟から聞いた榎本武揚の人物像を黒田清隆に報告していた。梅渓 昇『黒岡帯刀』日本英学史研究1972巻、第4号、1972。
明治11年6月1日付、姉、鈴木らく宛ての手紙で榎本は「河村(川村純義)の海軍卿」人事*を電信で知らされたと書きました。さらに井上馨から急に電信をもらい、榎本に早く帰朝して欲しいという主旨だったと書きました。榎本は、大久保利通が暗殺(明治11年5月14日)されて以降、参議たちは心細くなっているのだろうと浮世離れしたことを家族への手紙に書きました。
川村を海軍卿に推していたのは大久保でした。しかも、獄中にいた榎本の死刑を求める急先鋒である木戸孝允は、前年の明治10年(1877)5月26日、西南戦争中に病死しました。井上が榎本へ帰朝要請の連絡をしたことは、川村のバックが消えたことや榎本に手厳しかった木戸が死去したことを機に、榎本を早く帰国させ、川村を更迭して榎本を海軍卿につけようとしていることを意味していました。
榎本を海軍卿に推した人物は、伊藤、山縣、井上という長州人たちでした。さらに大隈重信は川村を海軍から排除しようとしていたことが、田村栄太郎『川村純義・中牟田倉之助伝 : 明治海軍の創始者』(日本軍事図書、1944)でとりあげられ、松枝保二 編『大隈侯昔日譚』(報知新聞社、大正11)での大隈の当時の回顧を一部引用しています。
ここで、『大隈侯昔日譚』から関係個所を全文、引用して紹介します。
『海軍も薩摩の勢力であるし、警視庁も全然隆摩の警視庁であつた そこで我輩は其衝に當たって、大いに改革しようと云う訳で、伊藤、井上もこれに同意し、早速薩摩の[へ]矛先を向けて、海軍からは川村を退かしむべしとまで極論した。これは岩倉も三条も有栖川宮も賛成せられ、西郷[縦道]、大山[巌]等も敢えて反対もしなかった 然し何時の間にか薩長一部の軍人達が相結んで、この改革は余りに急激に過ぐと云う、手厳しい反対的逆襲を始めた。伊藤と井上とは頗る窮境に陥つた。別に勇気が無くなった訳でもあるまいが、進退が甚だしくくるしくなったんである、・・・ 』p.241
榎本が箱館戦争で降伏し、投獄された後、参議が榎本の処分を議論したとき、「長州は、慶喜帰順後の反乱だから死刑にするべきと主張しましたが、西郷や薩摩の連中は死刑を許せ、黒田は榎本の首を斬るなら自分の首を斬れと言い張っていました。もともと、大隈は『開国進取で外へ向かうべきところ、封建的な内争をするは何事ぞと』考え、当初木戸の弁護もしたが最後は『勇者は仁に近しと云う西郷の人情も捨て難しとなしたんである。』*と語り、さらに、赦免された榎本一派はその後、立派に仕事をしたではないか」と語っていました。
*大隈か西郷が、論語の「剛毅木訥仁に近し」(ごうきぼくとつじんにちかし)を「勇者は仁に近し」と砕けた言い方をしたのだろう。剛毅木訥とは、「意思が強くてしっかりして飾り気がない」という意味。「仁」とは、「孔子の道徳の根本原理。親に親(した)しむという自然の親愛の情を、万人にひろめ及ぼした道徳的心情」という意味。どちらもコトバンクから引用した。
税権回復を狙った条約改正交渉は失敗に終わり、明治12年9月10日に外務卿が寺島から井上に変わると、榎本は11月18日に外務大輔に昇格し、省卿になる資格を得て、翌年、明治13年2月28日、海軍卿に就任しました。海軍薩摩閥は、榎本参議、川村外務卿留任を期待していましたが、川村海軍卿が参議へと異動させられ、榎本海軍卿が就任しました。一見、薩摩系に見えるが、その実、榎本は、政府内の非主流派である徳川閥の人物で、しかも国内では最も合理的な考え方をする人物でした。
明治十年代の榎本については、加茂儀一『榎本武揚』*1や論文、武藤三代平『明治政府における榎本武揚の位置づけ:明治十年代の井上馨との関係から』*2で詳しく紹介されています。ここでは、海軍薩摩閥が内閣へ行った権力抗争やいくつかのトピックスを取り上げ、考えてみます。
*1加茂儀一『榎本武揚』中央公論、昭和35年。中公文庫、昭和63年
*2武藤三代平『明治政府における榎本武揚の位置づけ:明治十年代の井上馨との関係から』北海道大学(HUSCAP)、2016
Doc URL http://hdl.handle.net/2115/63906 全文をダウンロードできる。
・榎本海軍卿を排撃する面々
榎本が海軍卿に就任すると、海軍の薩摩閥は、陸軍の長州閥(山縣閥)の参謀本部に対抗して、海軍参謀本部を創設し、川村が参謀長になり、榎本に事務方を押し付け、操ればいいと構想しました。しかし、明治13年12月21日に山縣と西郷の連名で「海軍参謀本部不要論」が太政官宛に呈上され、海軍参謀本部の見通しが無くなると、海軍内の薩摩閥が榎本を排除し、川村を海軍卿に復帰させる運動がさらに激化したと考えられます。
『明治天皇紀 第五・99巻』(吉川弘文館、1971)の記述から、海軍の薩摩閥の取った榎本海軍卿を追い出し、川村参議を海軍卿に呼び戻そうとする行動を見てみます。
(明治十四年四月四日)
『太政大臣三条実美、海軍卿及び文部卿の更迭を内奏す、去歳 [きょさい、昨年を指す]海軍部内各艦長等の間に新に海軍参謀本部を設けんとするの議ありて、之れを海軍卿榎本武揚に建言す、其の理由とする所、海軍省の事務を分割し、軍務[軍令]は挙げて之れを参謀本部に属せしめ、以て事務の繁簡宜しきを得んとするにあれども、実は陸軍との権衡を保たんとするにあり、然るに武揚見る所を異にして之れを賛せず、卻[かえ]りて嚮[さき、キョウ]に提議せる海軍曾議所設置方案の聴許あらんことを欲する旨を論す、艦長等肯ぜず、連署して太政大臣に建白する所あり、爾来[じらい]物議紛起し、遂に将官の過半亦[また]参謀本部設置説に和するに至り、武揚に対する非難の声漸[ようや]く高く、動もすれば之れを排擠[はいせい。榎本を押しのけたりおとしいれたりする]せんとす、今年二月に及び、途に海軍卿更迭の議起りて竊[ひそか]に其の後任者を物色す、・・・参議大木喬任*の如きは是の機を以て宜しく海軍省を廃し陸軍省に合併すべしと設くに至る、・・・』
*大木喬任(おおきたかとう、1832-1899) 佐賀藩士、尊王派、江藤新平と共に東京奠都を岩倉に建言。東京府知事、文部卿、司法卿、文部卿、枢密院議長など。征韓論には反対の立場。肥前閥の代表格として処遇された。(コトバンク、長井純市)
榎本は世界の海に君臨する英国海軍の歴史と組織を範とすべしと考え、薩摩閥に「海軍会議所」*の設置案を説明しました。しかし、薩摩閥は、海軍が長州の参謀本部に支配されることを嫌い、海陸共々対等の立場(「陸軍との権衡」)になりたいと欲望し、川村を参謀長に据え、川村から榎本海軍卿へ指令することを画策し、さらに榎本を海軍から追い出そうと運動しました。
* 海軍曾議所 ここでは、英国海軍で1832年に廃止されたNavy Boardではなく、Board of Admiraltyを指すと考えられる。英国海軍などの組織を参考にすると、海軍卿はアドミラル(Admiral)に、海軍省はアドミラルティ(Admiralty)に相当し、日本の海軍省内にBoard of Admiraltyに相当する海軍会議所を設置する案では、海軍会議所が艦隊の運営、リソース管理や戦時に指揮をする。
参考:
小林幸雄『イングランド海軍の歴史[新装版]』原書房、2016。
現在のAdmiralty BoardのURL https://www.royalnavy.mod.uk/our-people/senior-naval-staff/admiralty-board
遡ること幕末。榎本徳川海軍司令官は大阪湾碇泊中、江戸で徳川と薩摩が交戦状態に至り、逃亡する江戸城下攪乱工作をした薩摩系浪人たちは、品川に停泊していた薩摩軍艦「翔鳳」に逃げ込み、「翔鳳」が出帆すると、徳川海軍軍艦、回天からの追撃を受けますが、逃亡に成功したことを、大坂城経由で連絡を受けました。榎本の艦隊は、薩摩海軍の艦船を兵庫沖で発見し、交戦規定にしたがい砲撃しました。そして、薩摩海軍の艦船(翔鳳、春日、平運丸)が兵庫港へ逃げ込むと、榎本の徳川海軍の艦で兵庫港を封鎖しました。薩摩側から交渉団(士官2名)が榎本海軍司令官へ談判しに訪れ、『我々に弓引くは天朝に弓引くに等しい』と主張しましたが、榎本から薩摩と徳川は江戸ですでに交戦状態になったので戦時国際規定に基づく手順に従った対応をしていると返答され、渋々、薩摩の軍艦に引き揚げました。薩摩海軍の艦隊は、慶応4年(1868年)1月4日未明七ツ時(午前4時)、徳川艦隊が大坂側に移動した間隙をついて、逃亡を図り、それに気づいた徳川艦隊から追跡を受け、砲弾を浴びましたが、薩摩の艦船は小型船の高速性を活かし散り散りになって必死に薩摩へ向けて航海し逃げ切ました。
(綱淵謙錠『航 榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯』新潮社、1986)
この時の薩摩の海軍士官たちが、明治新政府の海軍の海軍士官*、艦長に含まれていました。榎本海軍卿の時代、全海軍武官(職業軍人)の28%、佐官以上の30%が薩摩出身者でした。(表2)
*例:井上新右衛門、和田彦兵衛、赤塚源六、有川藤助、伊東祐麿、伊東祐亨(後に元帥、初代連合艦隊長)、毛利覚助、林謙三(後の安保清康元帥)、井上良馨(後に元帥)や東郷平八郎ら。
表1. 改正官員録、明治13年2月(国会図書館、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779283)
表2. 明治13年、榎本海軍卿時代の出身県別の尉官以上の人数13年、榎本海軍卿時代の出身県別の尉官以上の人数
(引用元:梅渓 昇「海軍参謀本部設置論の発生とその歴史的性格」『日本歴史』第252号、1969年5月)
『明治天皇紀』からその後の経過を抜粋します。
『・・・大臣等亦[また]川村復任の外なかるべしと思惟すれども、伊藤之れを賛せず、大隈亦伊藤と所見を同じくす、其の謂ふ所、川村の力にては海軍将来の発展を期し難きのみならず、薩摩出身者の復任を不可と為すにあり、客歳[さくねん]榎本を海軍卿に任ずるや海軍部内之れを歓ばず、海軍参謀本部を設置し、川村を其の長官として海軍の実権を其の手に収めしめ、榎本をして単に庶務に當らしめんとの方策に出でしが、山縣・西郷之れを不可とす、海軍士官等更に左大臣[有栖川宮 熾仁親王、ありすがわのみやたるひとしんのう]に迫る、左大臣、英吉利の如き海軍に於ても尚且之れが設置を見ざるを以て、其の要なきを論示す、是に於て途に榎本排斥の挙に出で、事毎に反抗して止まず、情況斯くの如く、彼等実に海軍省を私するの観なきにあらず、仍[よ]りて惟ふに、前議の如く山田[顕義、陸軍中将兼参議、長閥]をして海軍卿たらしめ、其の部内に若し不服を唱ふる者あらば、之れを罷免すべきなり、然るに大臣等只無事平穏を希[こ]ひ、巳むを得ずして途に川村の復任に決せり、抑々[そもそも]内閣の現況を観るに、長州出身の参議は職務に勤勉すと雖も、薩摩出身の参議は寺島[前外務卿、榎本の上司だった]を除くの外は概ね出仕せず、但し川村をして復任せしめば、黒田·西郷等も亦出仕せんとするが如し、大臣の権威振はずして、薩摩参議の放悉*を制する能はざること此の如し、木戸、大久保世に在りし間は・・・』
*ほうし。勝手気ままでしまりのないこと。わがままで、だらしないこと。(精選版 日本国語大辞典、2006)
薩摩は再び「私する」行為をしていました。これでは「薩摩の海軍」であって「日本国の海軍」では無いと伊藤や大隈らは薩摩閥を批判し、伊藤と大隈は川村が海軍卿として復帰することに反対していました。3月19日の閣議で、陸軍中将兼参議山田顕義を海軍卿兼任にし、榎本を新設される農商務卿にすることにし、三条実美は左大臣の熾仁親王とともに内奏し聖旨[せいし、天皇の命令]を待つと、天皇は深く考えることになりました。岩倉、三条は伊藤を説得し、川村の海軍卿復帰の了解を得ました。そこで新たに閣議を開き、榎本を元老院議官兼駐仏特命全権公使にするなど人事を決め、天皇から承認を得ました。榎本はこの人事を辞退し、海軍中将の返上まで申し出ました。明治14年4月7日、榎本は海軍卿を免ぜられました。
榎本が罷免されるまで、長州出身の参議と薩摩出身の寺島は出勤しましたが、薩摩出身の西郷、黒田まで欠勤状態でした。ここで榎本の助命嘆願の急先鋒と見られた黒田にとっての榎本の位置づけがわかります。黒田にとって、榎本は海軍の薩摩閥では末席、むしろ海軍外の分野での活躍、特に外交分野に期待しての助命活動でした。
長田偶得『明治六十大臣』(明治34年)によると、榎本は、「おれは、なんでもひとのやるくらいのことなら十分やってみせるが、海軍省だけは、モー、懲り々ぢゃ」*と自身常々言っていたそうです。
* 『薩長政府につかえてまずはそこそこの地位に立ったのは海軍卿が最初だった。オランダで鍛え上げた海軍の腕前なので当時、この人の右に出るものはいなかった。ところが、旧幕臣の江戸っ子が薩摩の海軍とまで言われた隼人連の中にいきなり飛び込んでなにができるだろうか。下僚の激しい反抗運動に会い、さらに少壮士官らのすったもんだ、殴るける、散々な目に会い辞職してしまった。この乱暴連に伊東祐亨も加わっていた。・・・言うまでもないが、八面応酬の書記官的才能に富んでいるから、鳥渡間[ちょっとま]に合わせの伴食大臣には格好の人物ぢゃ、自身も平常こう言っている「おれは、なんでもひとのやるくらいのことなら十分やってみせるが、海軍省だけは、モー、懲り々ぢゃ」』
榎本の海軍卿追い出し騒動の約30年後に、大隈は薩摩閥の海軍改革を実現しました。大正3年(1914)1月23日に、各紙がドイツの在日シーメンス社員と海軍将校による軍艦購入に関わる収賄事件を報道しました。
『シーメンス事件が明るみに出て議会でも追及されると、一月末以降、大隈は「長閥」(長州閥だが実際は山縣系官僚閥)はすでに瓦解しており、薩摩閥も崩壊しようとしているので、「薩摩を葬」り、今後は「国民の天下」とせねばならぬので、憲法上与えられた権利は自ら取るべしと論じた。』(伊藤之雄『大隈重信 (下)』p.171-172)
大隈は、海軍の薩摩閥の山本権兵衛を含め有力者を閑職にするなどを実行し、『海軍に就いて見るも、海軍省では、従来用語まで薩摩言葉をもちうるという風に、薩摩でかたまって居たんであるが、ツイ七八年前に海軍の大改革をやったので大分変ってきた。』(『大隈侯昔日譚』)と、後に語りました。
形なりにも薩摩閥が求めた海軍参謀本部の新設*1は明治21年(1888)に実現しました。参謀総長を皇族とし、配下に陸軍参謀本部と海軍参謀本部へと組織変更されました。海軍と陸軍の参謀本部(統帥権)が並列に配置された、日本特有の組織形態でした。この結果、陸海軍双方で予算獲得や様々な面で抗争が継続しました。そしてこの抗争が米英と開戦に至った一因*2と言われています。しかも、どちらもスタッフなので、命令するが責任は取らずという無責任な組織*3でした。ついに日本を国家滅亡の崖っぷちまでに追い込んでしまいました。
*1 熊谷光久『明治期陸海軍の対立』政治経済史学、1989(5)277、1989
*2 野村 実『近代化途上における日本陸海軍の対立』政治経済史学(11)(247)、1986
『第6回「海軍の歴史勉強会」要旨一終戦70周年記念 日本海軍に内在していた諸問題―(日清戦争から太平洋戦争まで)』公益財団法人水交会https://suikoukai-jp.com/suikoukai/wp-content/uploads/2016/04/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E5%9B%9E%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%8B%89%E5%BC%B7%E4%BC%9AHP.pdf
*3 半藤一利『日本型リーダーは、なぜ失敗するのか』文春文庫880、2019(初版2012)
(続く)
【参考】
表3. 明治13年における太政官・海軍中央部における薩摩・長州出身者配置図
(引用元:梅渓 昇「海軍参謀本部設置論の発生とその歴史的性格」『日本歴史』第252号、1969年5月)
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