ウクライナは「対岸の火事」だろうか
ロシアによる侵攻が懸念されるウクライナ情勢は、緊迫の度合いが日々増しています。ロシアはすでにウクライナ周辺に10万人規模の兵士を配置、これに対して米国はウクライナと接する東欧のNATO加盟国に8500規模の兵士を派遣すると表明、NATO諸国もウクライナへの武器支援を強めています。戦争を回避するために、ブリンケン米国務長官とラブロフ・ロシア外相が断続的に会談するなど外交的な努力も行われていますが、背景には、「世界の警察官」の役割を降りようとする米国に代わって、新しい世界秩序をつくろうとするロシアや中国の思惑も絡んでいるとみられ、日本も「対岸の火事」と傍観しているわけにはいかないかもしれません。
プーチンの野望か、ロシアの防衛か
欧米のメディアを通じて入ってくるウクライナ情報では、ロシアが「偽旗作戦」(※)を準備していたり、ロシアが侵攻後のウクライナにつくる傀儡政権の人事を進めていたり、ロシア側の挑発行為が目立ちます。しかし、ロシアのメディアが流している情報では、挑発的な軍事行動を起こしているのはNATOで、ウクライナの政権は米国に操られた人形であり、失敗国家になっている、のだそうです。
※偽旗作戦(false flag):敵に成りすまして味方を攻撃して、被害を受けたと見せかける軍事作戦。
ロシアの勝手な言い分だと思えますが、ロシアからみると、冷戦崩壊後のNATOの拡大戦略は目に余るもので、もともと旧ソ連圏だった東欧諸国を次々にNATOの加盟国とし、ソ連邦の一員だったウクライナやジョージア(グルジア)までNATOに引き入れようとするのは、越えてはならない一線(レッドライン)に足を踏み入れようとしている、ということになります(下図参照。日本経済新聞掲載の図に手を加えました)。
ウクライナの歴史をみると、首都のキエフを中心とするキエフ公国(9世紀後半~13世紀半ば)がその原点で、オーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国などに支配、分割されてきたのち1917年にウクライナ人民共和国として独立したもののソ連の支配下となり、第2次大戦後もソ連邦のひとつの国とされてきました。ソ連の崩壊で1991年に実質的にも独立国家になりましたが、2005年のオレンジ革命で親欧派とされるユシチェンコ大統領が就くと、ロシアはウクライナに供給していた天然ガス価格の大幅な値上げや供給制限で政権に露骨な揺さぶりをかけるようになりました。次の大統領になった親露派とされるヤヌコビッチ氏が2014年2月の反政府デモでロシアに亡命すると、クリミア半島の親露派住民が独立を宣言、同年3月にはロシアに併合されることになりました。
今回のウクライナ危機も、クリミア併合と同じような構図で、ロシア系住民の多い東部ドンバス地方でウクライナからの分離独立派が政府軍と武力衝突を繰り返してきました。ロシアはそれに乗じてウクライナに侵攻、ウクライナ全土を支配下に置くか、東部地域の分離独立とロシアへの併合を狙っていると見られています。これが実現すれば、ロシアはNATOの拡大路線を押し返しただけでなく、クリミア以来のロシアの領土拡張をなしえたことになります。ロシアの防衛でもあり、ロシア帝国の復活というプーチン大統領の野望とも合致するように思えます。
プーチンの野望は、領土拡張だけではないという見方もあります。米国家安全保障会議(NSC)の元欧州ロシア上級部長のフィオナ・ヒル氏(現ブルッキングス研究所シニアフェロー)は米ニューヨークタイムズ紙(2022年1月24日)への寄稿で、次のように述べています。
「プーチン氏の目標は、NATOのウクライナへの“開かれた扉”を閉ざし、より多くの領土を占領することよりも大きく、米国を欧州から追い出すことだ」
「プーチン氏は、1990年代にロシアが飲み込んだのと同じ苦い薬を米国に味あわせたいと考えている」
苦悩する米国と欧州
19世紀から20世紀にかけて、中央アジアをめぐる大英帝国と露西亜帝国との覇権争いは「グレート・ゲーム」と呼ばれています。日露戦争に先立って英国が日英同盟を結んだのも、この文脈で考えれば理解できます。いまロシアが狙っているのは、21世紀のグレート・ゲームである米中対立に絡みながら、欧州や中東での米国の影響力をできる限り弱めることでしょう。いや、プーチン自身はバイデンとのグレート・ゲームをしているのは習近平ではなく自分だと思っているかもしれません。
ウクライナ支援でNATO諸国は一致しているように見えますが、どこまでロシアと対決するかは加盟国によって温度差があります。もっとも強気なのは米国ですが、欧州連合(EU)は域内で使う天然ガスの4割超をロシアからの供給に依存していることもあり、ロシアへの経済制裁に同調すれば、天然ガスの供給停止といった手痛いしっぺ返しを食う可能性があります。なかでもドイツは天然ガスのロシア依存度は約5割で、ロシアと海底パイプラインで結ぶノルドストリーム2は敷設が完了し、稼働のゴーサインを待つばかりになっています。経済制裁によってパイプラインが稼働できなくなれば、大きな損失となるのです。
欧州の天然ガス価格は、コロナ禍からの経済回復による需要増加やロシアからの供給不足によって、昨年1年間で約5倍になり、人々の生活を苦しくしています。ここでロシアからの供給が途絶えれば、凍死者も出るだろうといわれています。もちろん天然ガスの供給停止は、供給側のロシアにとっても痛手ですが、ロシアには中国という大きな買い手がいるのが強みです。
これまで欧州の足並みをそろえ、米国との温度差を縮小するという場面になると、調整役として欠かせない人物がいました。ドイツのメルケル首相です。2014年のロシアのクリミア併合に対する経済制裁では、欧州をまとめるのにメルケル首相の役割が大きかったといわれています。メルケル氏の退陣のあと首相に就いたショルツ氏は、外交での経験が乏しいうえに、母体の社会民主党がロシアには弱腰だといわれていることから、欧州をまとめるには力不足だとみられています。こうした欧州事情は、プーチン大統領のウクライナ戦略には織り込まれていると思われます。
オリンピックとウクライナ
ロシアのウクライナ侵攻は秒読みという感じですが、同じように期日が迫っているのが北京冬季オリンピックです。中国政府にとっては、この大会は国際社会に「平和を愛する中国」を示す晴れ舞台ですから、ウクライナ戦争で「平和の祭典」ムードが吹き飛んでしまうのは何としても避けたいと思っているでしょう。北京大会の開幕式にはプーチン大統領が出席を予定しています。中国政府は全否定していますが、中国がロシアに対して、オリンピック期間中の侵攻はやめるように要請していることは十分、考えられると思います。もし、そういうやり取りが中ロの首脳間であったのなら、ロシアが見返りに何を求めたのか気になるところです。
2014年のウクライナ騒乱は、2月18日にキエフで起きたデモ隊と警察との武力衝突がきっかけで、抗議活動が高まるなかで当時のヤヌコビッチ大統領が21日にキエフを脱出し、ロシア亡命します。このときに開催されていたのがソチ冬季オリンピック(2月7日~23日)で、その後、クリミアがロシア軍の支援を受けて3月17日にはクリミアのウクライナからの分離とロシアへの併合が決まりますが、この間ソチで開催されていたのがパラリンピック(3月7日~16日)でした。国際社会からはパラリンピック期間中の軍事行動を控えるようにロシアに求める声が高まりましたが、プーチン大統領は無視しました。
ロシアの軍事行動とオリンピックは縁が深いようで、2008年8月にグルジア(現ジョージア)の正規軍が分離を求める南オセチア自治州に侵攻し、防衛していたロシア軍との戦争になり、結果は南オセチア・ロシアがグルジア軍を押し戻しました。2008年南オセチア紛争です。この時期に開催されていたのが北京オリンピック(8月8日~24日)で、欧米の政府やメディアが注目したのは競技よりも戦争で、中国政府は苦い思いをしたことと思います。
この戦争はグルジア側が仕掛けた戦争のようですが、その背景には、この年の4月にルーマニアのブカレストで開かれたNATO首脳会議で、ウクライナとグルジアに対して将来のNATO加盟が約束されたことがあり、このときプーチン大統領は激怒したと伝えられています。「ただですむと思うなよ」と言ったかどうかわかりませんが、2008年の南オセチア紛争と2014年のクリミア併合で、ロシアの決意とレッドラインを鮮明にしたことになります。
日本には「対岸の火事」?
ロシアがウクライナに侵攻した場合、日本はどんな影響を受けるのでしょうか。想定できるのは、原油や天然ガス価格の高騰による生活への影響です。ロシアは石油や天然ガスの産出国としては世界のトップクラスですから、米国の経済制裁によって、ロシアからの供給が制約を受ければ、エネルギー需給がひっ迫するのは確実で、サウジなどの石油産出国もそれに見合う増産には応じないでしょうから、高値は続くことになるでしょう。
ロシアに対する大規模な経済制裁は、エネルギーに限らず貿易を縮小させるでしょうから、世界経済の先行きを悲観した世界的な株価の値下がりが日本にも及ぶ可能性があります。また、米国は、ロシアの金融機関を国際銀行間通信協会(SWIFT)から排除することを検討しているようですが、これが実行されるとロシアが関係する投資や貿易の決済が困難になりますから、ロシアの企業や投資家だけでなく、それにかかわる多くの金融・証券会社が影響を受けそうです。
安全保障での直接の影響はなさそうですが、ウクライナ危機を21世紀のグレート・ゲームと考えると、いろいろと気になることがあります。まず、台湾をめぐる中国の動きが活発化する可能性があります。米国や欧州がウクライナに気を取られている間に、台湾への圧力を強めることが予想されるからです。米国が欧州とアジアの2方面で軍事的プレゼンスを維持するのが困難となれば、中国は台湾、ロシアは中央アジアや中東で動きやすくなると思います。
また、前述したフィオナ・ヒル氏が指摘したように、プーチン大統領の狙いが米国の世界での影響力を低下させることだとすれば、日本への軍事的な圧力を強めることもあるかもしれません。ヒル氏は前掲の寄稿のなかで、「ロシアは、欧州における米国の正当性に挑戦しているだけではなく、日本にある米軍基地とアジア太平洋地域における米国の役割についても疑問を投げかけている」として、「プーチンは、欧州でことがうまく運ぶようなら、日本で問題を引き起こしたり、極超音速ミサイルをキューバやベネズエラに送ったりすることもできる」と述べています。プーチンのグレート・ゲームには、日本もキューバやベネズエラも含まれているということでしょう。
ロシアが大きな文脈でウクライナに対処しようとしているのなら、私たちはウクライナを「対岸の火事」としてではなく、大きな文脈で考える必要があるということになります。
(暴徒の写真は、1月27日に行われたウクライナのシュミハリ首相とG7各国の駐ウクライナ大使との会見。ウクライナ政府がHPで公表)
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