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東京五輪は風前の灯

2021.04.30 Fri

政府は国民の生命よりも東京オリンピックの開催の方が大事なのか、と思わせるような発言が丸川五輪担当相から飛び出しました。4月27日の閣議後の会見で、五輪に向けての東京都の医療体制が示されないと、東京都を批判したのです。コロナの感染者が増加し、4月25日から緊急事態宣言が出された東京都に対して、どれだけの医療スタッフを五輪にさけるのか、と問うこと自体が無理筋です。丸川さんは内閣の一員ですから、政府は何が何でも五輪開催なのだ、という印象を国民に与えました。

 

朝日新聞が4月12日に報じた東京オリンピック・パラリンピックの開催についての世論調査では、今夏開催が28%、再延期が34%、中止が35%で、今夏開催の支持がもっとも低いという数字が示されました。五輪よりもコロナ対策が大事だと国民の多数が思っているわけで、そんなところでの丸川発言ですから、近夏の開催支持はさらに減ったのではないでしょうか。

 

五輪は、いうまでもなく世界のアスリートが4年に1度、その技と力を競うものですが、いつの大会も政治と商業主義がまとわりついています。東京五輪も、直接的効果2兆円、レガシー効果12兆円、経済波及効果32兆円(2018年、東京都の試算)といった数字が喧伝され、五輪景気による政権の人気浮揚の思惑が見えていました。政治家から「アスリートファースト」などと言われる、「政治家ファースト、アスリートネクスト」でしょう、と言い返したくなりましたが、丸川発言を聞いて、その思いを強くしました。

 

◎東京大会はもはや失敗している

 

今回の東京大会は、もはや政治的にも経済的にも失敗していると思います。「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」を世界に発信するという首相の約束(今年1月の施政方針演説)が果たされないことは確実ですし、世界のコロナ状況をみれば、日本の国民だけでなく世界中の多くの人々が五輪の開催を祝福するという環境になっていないのも明らかです。

 

政治的には、「去るも地獄、残るも地獄」の状態です。中止すれば、開催できなかった責任を政府や東京都が問われますし、開催を強行しても、そのためにさまざまな犠牲を強いたことを非難されるでしょう。経済的にも、競技場などの建設による波及効果はあったと思いますが、外国人観光客が押し寄せるというインバウンド効果は期待できなくなりましたし、五輪の高揚感で財布のヒモがゆるくなるという「ドリーム効果」も消えたと思います。今後は、大きな競技場を建設したことによる巨額の赤字が東京都などにはのしかかってくることになるでしょう。

 

だから、首相も都知事も早く中止の決断を、というのがいまや国民の多数意見だと思います。しかし、私は少数意見をあえて言いたいと思います。こんな状態のときこそ、五輪にまぶりついた政治効果や経済効果を引きはがした「はだかの五輪」を見たいと思うのです。

 

◎「はだかの五輪」が見たい

 

世界中でスポーツをしている人々にとって、五輪は憧れの舞台であり、そこで表彰台に上がることは、すべてアスリートにとって、まさに頂点を極めることだと思います。4年に1度しかないそのチャンスが奪われることは、参加できると思っていた選手にとっては、人生の一部をはぎ取られるような苦痛であり、選考に敗れ出場権を得られなかった多くの選手にとっても、自分の努力を否定されるような苦痛であることには変わりないと思います。

 

私は、体育系の大学で教えたことがあり、そこである競技部の部長も勤めましたから、選手たちが五輪出場という夢に向かって、日々練習を重ねている姿を見てきました。アスリートが競技で求めるのは勝利ですが、日々の練習で考えていることは自分に克つことです。陸上競技や水泳が典型ですが、選手が日々目標にしているのは、前の日よりも0.1秒速くなったり、0.1m遠くに跳んだりすることで、戦う相手は昨日までの自分なのです。

 

アスリートが五輪に求めているのは、自分のパフォーマンスを発揮できる舞台であり、それが新設の競技場であろうとなかろうと、観客がいようがいまいが、それは二の次です。私が「はだかの五輪」を見たいと言ったのは、観客がゼロでも、世界からの祝福が少なくても、自分の鍛えてきた競技力が世界でどれだけ通用するのかを試したい、というアスリート魂がぶつかり合う場としての五輪をテレビを通じてでも見たいということです。

 

◎戦火のランナー

 

先日、グオル・マリアルという南スーダン出身のマラソンランナーの半生を描いた『戦火のランナー』というドキュメンタリー映画の試写を見ました。内戦が続いたスーダンで生まれ、戦火をくぐり抜け、難民キャンプから米国に移住、長距離ランナーとして頭角を現し、2012年のロンドン五輪には個人資格で、2016年のリオ五輪には南スーダンの選手としてマラソンに出場した選手の生きざまを描いた作品です。

 

リオ五輪の場面では、2011年に誕生した南スーダンという新興国家の選手団旗手として入場する姿や、五輪という国際舞台で翻る国旗を喜ぶ祖国の人々の姿が映し出されていました。メダルをどれだけ獲得できるかに関心がいきがちな先進国のスポーツ大国が忘れてしまった五輪、そのもうひとつの物語だと思いました。(写真は『戦火のランナー』から。©Bill Gallagher)

37歳になるこの選手が東京五輪に出場するのは難しいのかもしれませんが、こうした物語は、200を超えるという参加国、1万人を超える選手のなかに、いくつもあるのだろうと思います。五輪を招致した国には、選手たちが安心して競技できるような環境を整える国際責任と義務があるはずです。

 

◎ホストタウンの見直し

 

東京五輪を実施する大会組織委員会の橋本会長は、4月28日に開かれた政府、IOC(国際オリンピック委員会)、IPC(国際パラリンピック委員会)との5者会議の席で、「無観客という覚悟も持っている」と述べ、無観客での開催の可能性について言及しました。無観客になれば、警備や会場整理に必要なスタッフの数を大幅に減らすことができますし、観客に対応する医療スタッフの数も減らすことができます。最終決定は6月に先延ばしをしたようですが、今の時点で無観客を決断すべきだったと思います。

 

ここで無観客が決まれば、開催に必要なスタッフの数をしぼることができますし、コロナの治療に追われる医療機関に、大人数の派遣を求めるなどという愚を犯す必要はありません。無観客で競技をするには、最小限これだけのスタッフが必要だという説明をすれば、五輪よりもコロナという国民感情も少しは和らぐのではないでしょうか。

 

もうひとつ問題なのがホストタウンです。各国から日本に入る選手団の事前合宿です。内閣官房の五輪推進本部によると、4月27日現在、ホストタウンの登録をしている全国の市町村は456件となっています。すでに地域の住民との交流などは中止することになっているようですが、空港―ホストタウン―競技場の輸送、宿泊施設の管理運営、PCR検査などの医療体制など、ホストタウンが負うべき負担とリスクは非常に大きくなっています。

 

すでに返上を決めたところもあるようですが、原則中止をすみやかに決めるべきだと思います。決断が遅れれば、これからのいろいろな準備が無駄になりますし、地域の失望感も大きくなります。

 

無観客で、ホストタウンもなし、となれば、日本で五輪を開く意味はない、という意見が出てくると思います。その通りだと思います。それでもアスリートファーストを貫いて、大会を中止せず、競技をさせるのが開催国の責任だと私は思うのです。

 

(冒頭の写真は『戦火のランナー』の場面©Bill Gallagher。映画は6月5日から、シアター・イメージフォーラム他全国で順次公開)


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