大手メディアが伝えない情報の意味を読み解く
情報屋台
文化
国際

黄金のアフガニスタン特別展 交流による文明の誕生

2016.04.13 Wed
文化

黄金のアフガニスタン特別展

この4月12日、東京上野の国立博物館の表慶館に参りました。同館は、大正天皇の御成婚の奉祝のため、全国からの寄付により建設、献納された建物の由、明治41年(1908)に竣功しており、正面の左側に在ります。 しばしば、この博物館には参りますが、その中で、この表慶館は初めてですね。

さて、同館にて、この日から特別展として「黄金のアフガニスタン特別展」が始まるとのことですので、早速見学して参りました。実は、日本では、太宰府の九州国立博物館にて第一会期が本年1月1日から2月14日まで開催されておりまして、東京が二つ目の会期となる由です。
「アフガニスタン国立博物館」による「世界を巡回する展覧会」の開催

特異と思われますのは、このイベントが「アフガニスタン国立博物館」の「世界を巡回する展覧会」という形で開かれていることです。こうした巡回型の展覧会と言う方式が採られることが在る事に感銘を受けました。文化の世界の相互理解と協調体制のもたらす果実でしょうか。これをベースとして、アフガニスタン政府が各国と理解・協調の下、「自国の文化財を通じ、その文化を世界に発信する」という事を実践する事を決めたことが端緒となり、今次の諸々の事が動き出したようです。 小国ながら、昔からの「文明の十字路」の感性と重みが息づいているのでしょうか。

事の大きな切っ掛けは、アフガニスタンが1979年の旧ソ連による大規模な軍事介入と、それに続く内乱により、凄まじい殺戮と破壊行為が起き、アフガニスタン国立博物館も例外では無く、それらにより、世界に誇る貴重な遺宝などの収蔵品が、実権を握ったタリバンなどにより徹底的に壊され、消失したと見られたことに在ります。

ところが、この戦禍の中、実に勇気ある博物館職員が、それらの遺宝を密かに運び出し、一切知られない所へ秘蔵していたのです。そして、その事を誰にも口外せずに居たところ、2002年頃になって、タリバンが政権を去り、やや平和が戻り、選挙が行われ、体制が安定してくると、「実は、それらのものは中央銀行の秘密の金庫内に隠されている」事が判明、内外に安堵の気持ちが流れたと申します。まばゆいばかりの黄金や象牙の品々などが生きて、戻って参りました。

その人達の信念は、「自らの文化が生き続ける限り、その国は生きながらえる」 と言うものであったと言います。凄いですね。文化が生きてこそ、その国が生き残り、人々も生き続けると言うのです。似た話は、ISとの命懸けの対決が生じたイラクの博物館でも起きた由です。

以上の経過と背景をもとに、上に記したアフガニスタン政府の「世界巡回展覧会」の決定へと繋がった由、文化を巡る執念の様なものを感じますね。

斯くて、最初は2006年、フランスのギメ国立東洋美術館」が皮切りと言う事で、各国へ巡回が始まりました。爾来十年目の今年に、遂に日本に回ってきました。以下、印象に残った事を若干記します。
1  文明は交流・交易の中からも生まれ、育つという

私どもが教わった世界史では、世界には四大文明が生じました。それらを見ると、メソ ポタミア文明とチグリス・ ユーフラテス川、エジプト文明とナイル川、インダス文明と インダス川、黄河文明と黄河と、何れの場合も、大河川という自然条件と、農耕との深 い関わりが、文明を発祥させるもとになったとの事でした。

しころが、今回の展示では、驚くべき事に、アフガニスタン東北部のバクトリア地方の テペ・フロールと言う遺跡で金銀器が出土し、それらが生産された時期が紀元前約三千 年紀の終わり頃と推定されること、そして、その装飾文様がメソポタミアとインダスの 両文明間の交流を示すものを表していると言います。その地は河川などの水に恵まれ ず、農耕に適しませんが、交易や交流は在ったと見られる由、斯くて、異なる二つの文 明の間でそうした中から、融合が起き、独特の文化を生み出したので在ろうと推測され る由です。 つまり、交流・交易も、文明の生成因の一つとの事でして、注目すべき見 方で在り、史観であると思います。
2 ヘレニズムの果実はアフガニスタンにも:アイ・ハスム

アフガニスタンの東北方、今日の中央アジアのタジキスタンとの国境に近い所に、ア イ・ハスムの遺跡が在ります。それは、ギリシア風の街が、忽然とアム川沿いの乾燥 地帯に出現する趣きです。こんな所までギリシア人がやってきたとは、或いは、ギリ シア文化が持ち込まれていたことはと、驚嘆しますね。

それは、都市国家ギリシアそのままが再現したのではありません。もとより、作られた時期は、アレクサンドロス大王が遠征を始めた紀元前334年から後で、遠征を終え、 バビロンの地で病死した紀元前323年から尚後年の頃、この地域を承継せる後継者将軍により形成されたシリア朝の支配下の頃と推測されるようです。ちょうど、その頃、この地ヘレニズム文化圏の都市作りがギリシア人入植者により行われたのでしょ う。

その遺跡には何と、宮殿、水浴場、体育場、半円形の劇場が作られていた由、復元の CGを見ると、将にギリシア風の街の概観を呈しています。公共施設との表示されている所には、エジプトのアレクサンドリアの如く、図書館が在ったのかも知れませんね。

アレクサンドロス大王は、その遠征先で全部合わせると七十箇所も都市作りをした、乃至命じたと言いますから、このアイ・ハスムもそのひとつかも知れず、その存命中に限らず、その遺志が各地に嗣がれていったのでしょう。ヘレニズムとはどういうことか、これで体感した観すらあります。

他方、墓所で見つかったミイラや装飾品にも、各地との融合や交流が感知される由、 更に仏教や象牙文化などの広がりにも、いろんな事が認識できるようです。この辺り は、むかし教わったギリシアと仏教世界の繋がりなどにこそ、矢張り再発見される感じがありますね。
3 流出文化財

長き戦禍と混乱の中、勇気あるアフガニスタン国立博物館職員の奮闘努力があったとしても、多くの文化財が壊され、盗難に遭い、不法に売られるなどして、失われて行ったと申します。この内、かなりの数の文化財が様々のルートで、日本に入って来ていることを知った日本画家の平山郁夫氏は、ユネスコ親善大使でもあったゆえ、その保護に乗りだし、これら流出文化財を「文化財難民」と名付ける事を提唱、まず、ユネスコ総会で了承を取り付けた由です。

その後、保管、調査研究など所定の措置を経て後、アフガニスタン政府の要請を受けて、計百二点の返還が決まり、その内、15点が今回の展覧に含められて、その旨が表示され、所定のコーナーが設けられていました。

その中で、一点「おっ、これは」と思ったのは、232番の「ゼウスの神像 左足断片」 と表示された展示物でした。有名な古代ギリシアの神「ゼウス」の結構大きな足の断片でして、サンダル履きの姿であり、親指と残り四つの指の間に鼻緒が通っているものでした。元の展示では、アイ・ハスムの遺跡の所の様です。

今日の欧米人は通常靴を履きますが、こうしたタイプのサンダルは履きません。古代ギリシアはどうやら違っていたようですね。地中海性気候の所産でしょうか。興味ある事実です。


コメントする

内容をご確認の上、送信してください。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

文化 | 国際の関連記事

Top