あの敗戦の時のように価値観の大転換が進む
人生とは何か。自分は何のために生まれてきたのか—―人は誰しも十代の半ばから、そうしたことを考え、思いわずらうようになる。性の目覚めも重なり、悩みは一層深まる。
そういう時期に「天地がひっくり返るような価値観の転換」を経験すると、人はどうなるのか。それを綴った文章に最近、出くわした。
その一文は『山形南高昭和十九年組 喜寿記念誌』という本に収録されている。昭和5年から6年にかけて生まれ、先の戦争が終わる直前に旧制の山形二中に入学、敗戦を経験した人たちの同窓会誌である。
「昭和二十年の冬頃から、二中の生徒は一斉に不良化の道を進むことになる。誰れ彼れなしに全員が打ち揃っての不良化である。ケンカ、タバコ、マージャン、中には女郎屋から登下校する先輩もいた。女郎屋で先生とバッタリ顔を合わせてしまい『オッス』と言ったら、『オッ』と答えた先生がいたそうだ。その話が学校中に聞こえて、馬鹿が先生に確認したら、革スリッパの底に鋲の出ているヤツでいきなり殴られた」
「先ごろまでは鬼畜米英、一人必殺、竹槍持っても敗けはしない、畳の上で死ぬと思うなと教えられ、その気になっていたのに、たった一年でこの有り様。自由奔放、天真爛漫、腹だけはいつも空いていたっけ」
「戦争だってオレ達の大切な青春だったけど、暗室から一気にオモテに出てみたら、世の中ゼンゼン別なのだ。先生も生徒も一緒になって、遅れて来た自由にガッツいた。何という明るさだったろうか。見慣れた景色が突然に輝いて色がついた感じ。インフレ、食糧、疎開と明るい話はなかったが、そんなことはヘノカッパ。滅茶苦茶な中からすべてが育まれていった」
多感な時期に敗戦を経験した若者たちの苦悩と希望を描いて、余すところがない。筆者は千歳倉庫グループの代表、千歳貞治郎氏(89)である。父親はガダルカナルで戦死した。遺骨どころか、遺品すら届かなかった。
戦中派の彼らの同窓会は「何年卒」と名乗ることができない。戦後の学制改革で旧制山形二中は途中で山形南高校に改編された。旧制中学の5年相当で卒業した者もいるし、新制高校に進んだ者もいる。卒業年次がバラバラなのだ。ゆえに入学年の「昭和十九年組」と称する。
厳しい時代を共に生き抜いたからだろう。彼らの結束は固い。壮年になってからは、毎年ではなく毎月、19日に同窓会を開いてきた。
その結束力は仕事でも選挙でも、遺憾なく発揮される。千歳貞治郎氏は、自民党から新進党、民主党に転じた鹿野道彦代議士の後援会「愛山会」の統括として、鹿野氏の選挙を支え続けた。余り語られることはないが、吉村美栄子氏が当選した2009年1月の知事選でも、極めて重要な役割を果たした。
現職の斎藤弘知事の評判はすこぶる悪かった。自治労や県職労は対立候補の擁立に向けて動き出す。その中で浮上してきたのが吉村美栄子氏だった。
2008年3月に山形県で知的障害者のスペシャルオリンピックス冬季日本大会が開かれた。この時に接遇役を務めた美栄子氏を細川護熙(もりひろ)元首相の佳代子夫人らが高く評価した。佳代子夫人らの勧めを受けて、連合山形の安達忠一会長(当時)や岡田新一事務局長(同)らが自宅に足を運び、何度も出馬を要請した。
だが、美栄子氏の義父で吉村家の当主である敏夫氏は頑として応じなかった。敏夫氏は県教育長や出納長をつとめた県庁OBだ。現職の知事がいかに強いか、骨身に染みて知っていた。「労組や野党が束になっても勝ち目はない」と見ていたのだろう。
それを知り、元知事の高橋和雄氏(90)や千歳貞治郎氏が動いた。「自民党を真っ二つに割れば、勝負になる」と判断し、分断工作に乗り出したのだ。2005年の知事選でも、自民党は新人の斎藤氏を担いだ加藤紘一代議士派と当時現職だった高橋氏を支持する反加藤派に割れ、そのわだかまりが残っていた。
高橋元知事が語る。
「ある日の夕方、参議院議員(自民党)の岸(宏一)さんが自宅に来た。その車に同乗して、二人で吉村家を訪ねた。敏夫さんと美栄子さんが応対したが、途中で敏夫さんは『自分で決めなさい』と席を外した。一人になった美栄子さんは『考えてみます』と答えた」
2008年秋のことだ。この日から、斎藤県政打倒に向けた動きが本格的に始まった。
ただ、大きな問題が残っていた。1億円を超えるとされる知事選の資金をどうするか。担ぎ出した連合山形には、もとよりそんな大金はない。関係者の話を総合すると、連合山形や自治労などが負担した金は全体の5分の1ほどに過ぎない。残りは県内の有力経済人と民主党が賄ったのだという。吉村一族はほとんど負担していない。
選挙資金のめどが立ち、吉村美栄子氏が正式に出馬を表明したのは11月28日のことだ。知事選の告示まで40日しかなかった。
それでも、吉村陣営は「冷(つ)ったい県政から温かい県政に」をスローガンに現職の斎藤知事を猛追し、終盤で抜き去った。
吉村知事の誕生に尽力した二人は、3期12年の県政をどう見ているのか。高橋和雄元知事は「3期やれば十分でしょう。それ以上やれば害の方が大きくなる」と言い切った。
千歳貞治郎氏は何も語らなかった。今回の知事選で吉村後援会の顧問を引き受けたのも「祭り上げられただけ」と言う。知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いる企業と学校法人をめぐる様々な問題については、やや顔を曇らせながらも「あいつはいい奴だ」とかばう。「商売は下手だけどな」と付け加えて。
千歳氏は月刊『素晴らしい山形』の発行人、相澤嘉久治(かくじ)氏についても「あいつはいい奴だ」と言う。毎号、「政治資金で私腹を肥やした」と書かれているのに拘泥しない。千歳氏は山形二中で相澤氏の兄と同学年だった。どちらも父親は山辺(やまのべ)町出身である。人との縁を大切にして生きてきたからだろう。
◇ ◇
山形県の日本海沿い、庄内地域で吉村知事の誕生に力を尽くした人物となると、平田牧場グループの新田嘉一(にった・かいち)会長(87)を真っ先に挙げなければなるまい。
2009年の知事選で新田氏は当初、現職の斎藤知事寄りだったが、終盤になって吉村氏支持に転じた。庄内での吉村氏の得票は鶴岡市を除いて、すべての市町で斎藤氏を上回った。とりわけ、酒田市で大勝した。「新田氏の方針転換が大きく影響した」とされる。
独立不羈(ふき)の人である。何ものにもとらわれず、自分の考えを貫いて生きてきた。
米どころ庄内の南平田村(のち平田町、現酒田市)で農家の長男として生まれた。12町歩の田畑を持つ地主だったが、先の戦争で父親が召集された際、ほとんどの土地を小作人に託して出征した。
働き手を失い、小作の収入も思うように入らず、一家は困窮した。その様子を自伝『平田牧場「三元豚」の奇跡』に記している。
「父が復員するまでの間は、ただただ、ひもじかった記憶しか残っていない。水を飲んで腹を膨らませ、山から雑草を抜いてきては煮て食べていた。(中略)腹ペコの子どもたちに何か食べさせたかったのだろう。母は毎日のように実家から持ってきた着物と食糧とを交換しに出かけた」
「空腹もあるラインを超えると、暗くなっても眠れなくなるのだと初めて知った。まったく眠くならないのだ。その代わり、いろいろな妄想が頭の中に渦巻いてくる。思い描くのは食べ物のことばかりであった」
敗戦は、新田氏にも強烈な刻印を残した。
「世の中ががらりと変わってしまうことも十分にあると身をもって知った。昨日まで威張っていた大人が、途端に態度を豹変させるのも目(ま)の当たりにした。アメリカ兵が大挙して進駐してきても、大人の誰一人として反発する者はいなかった」
「私の家にも米兵が勝手に入り込んでは、家の中のものを随分と持ち出していた。それに対して怒るでもなく、『戦争に負けたのだからしょうがないよ』の一言でおしまいである」
戦後、父親が復員して暮らしは落ち着いた。ただ、父親は政治好きで選挙のたびに飛び回っていたという。
すこぶる頑固だった。「農業に学問はいらない」が持論で、息子が大学に進むことを許さなかった。新田氏は庄内農業高校を卒業して後を継いだ。
新田氏も父親に劣らず、頑固だった。「十年一日のごとく米を作り、選挙のたびに飛び歩いて一生を終えたくはなかった」という。「遠くない将来、日本でも動物性タンパク質が食の中心になる時代が必ずやってくる」という大学教授の講演に心を動かされ、養豚に取り組むことを決意した。
「養豚業に手を出すなら勘当する」と激怒する父親を説き伏せ、メスの子豚2頭で新しい道に踏み出す。新田氏の悪戦苦闘の日々の始まりだった。
今でこそ、新田氏が率いる平田牧場の豚肉と肉製品は市場での評価も高く、押しも押されもせぬ企業グループへと成長したが、そこに至る道は「養豚業で行き詰まり、資金繰りに窮して自殺した同業者と私との間には、ほんの少しの違いしかなかった」という苛烈な道だった。
流通大手ダイエーへの納入が増え、業績も順調だったのに、ひたすら買いたたこうとするダイエー側のやり方に「震えるほどの怒り」を感じ、取引をやめた。
売り上げは急減した。救いの手を差し伸べてくれた生活クラブ生協との取引でも、無添加ウインナーが輸送時のトラブルもあって腐り、全量廃棄の憂き目にあっている。
「良い豚肉を作り続ければ、いつか必ず消費者に受け入れてもらえる」という信念を曲げずに貫いて、今日に至った。
地元へのこだわりと貢献という点でも、新田氏はユニークな経営者である。ビジネスで得た収益を惜しみなく、酒田市と庄内のために注ぎ続けている。
庄内の経済を活性化するためには「東京との距離」を縮めなければならない。そのためには「どうしても空港がいる」と、庄内空港実現のため汗を流し、身銭を切った。
酒田港を「東方水上シルクロード航路」の拠点にする構想を掲げ、自ら中国東北部に飛び、畜産の技術指導に取り組んだ。そうした労苦の甲斐(かい)あって、黒竜江省からロシアのアムール川経由で酒田港に飼料用トウモロコシを輸入する航路が開かれた。
ビジネスにとどまらず、文化にも力を注ぐ。酒田市美術館の創設に奔走し、ついには県と庄内の自治体を動かして東北公益文科大学の開学に漕ぎつけた。2009年から大学を運営する学校法人の理事長を引き受けている。
理事長としての新田氏のあいさつが興味深い。公益について、次のように語っている。
「公益とは『自立して生きること』です。自立した人間つまり社会に役立つ人間とは、『税金を納める人間』であって、『税金を使う側の人間』ではありません。公益、自立した人間とは、地域で業を起こし、地域へ税金を納める人間になることです」
権力にすり寄り、公金がらみの甘い汁を吸うことばかり考えている人間に聞かせてやりたい言葉である。
その新田氏は3期12年の吉村県政をどう評価しているのか。旧平田町にある自宅を訪ね、その思いを聞いた。
吉村知事は県議会や記者会見で「次の知事選に出るのか」と何度質問されても、新型コロナウイルスの感染拡大の防止や経済の回復、7月豪雨の被害の復旧といった「県政の課題に全力でまい進する」などと、はぐらかし続けた。正式に出馬を表明したのは2020年の10月下旬だった。
ところが、吉村知事は同年7月9日、元県議を伴って酒田市にある平田牧場のゲストハウス「寄暢(きちょう)亭(写真)」で新田氏に会い、「やり残した仕事があります。よろしくお願いします」と、出馬の意向を明確に伝えたという。
新田氏は「何を残しているのか」と尋ねた。答えは曖昧模糊(あいまいもこ)としたもので、納得のいくものではなかったという。
今回の知事選で、新田氏は現職の吉村知事を支持せず、対立候補の大内理加元県議を応援する立場を明確にしている。「どういうところが納得いかないのですか」と尋ねると、次のような答えが返ってきた。
「恩を受けたら、その恩を返すのが人としての道。それができていない。人間として失格だ」
具体的には何も語らなかった。推し量るしかないが、事情通は「庄内のことを真剣になって考えようとする姿勢がまるで見えないことが我慢ならないのではないか」という。
例えば、東北公益文科大学のことがある。この大学は2001年に山形県が55%、庄内の自治体が45%の出資をして設立した公設民営の私立大学である。
現在は経営も順調だが、将来を考えれば、公立大学への移行が望ましく、新田氏をはじめとする庄内の関係者はかなり前から県庁に働きかけてきた。だが、吉村知事はまったく動こうとしなかった。
知事が2期目から力を入れ始めた「フル規格の奥羽・羽越新幹線の整備促進」も、今ある山形新幹線を新庄から庄内に延ばす構想を放棄するもので、庄内切り捨ての政策と映っているのかもしれない。
◇ ◇
最初の知事選で吉村美栄子氏を推した千歳貞治郎氏と新田嘉一氏という二人の「戦中派」は12年の歳月を経て、正反対の立場に身を置くことになった。それは、「温かい県政」を期待して一票を投じた人たちの間に深い亀裂が生じていることを意味する。
メディアはその亀裂の様相に光を当て、その意味を伝えなければならない。それは容易なことではない。それでも、「政治や選挙の報道のあり方を大きく変えなければならないのではないか」と訴えないではいられない。
二人の候補者の動きを「同じ行数で同じように伝える」といった形式的な公平さに囚われすぎているのではないか。報道全体を通してバランスを取り、公平に扱えばいいのであって、もっとメリハリの利いた報道を望みたい。
公けの席で語られたことや正式に発表されたことを報じることも大切だが、ひそかに囁かれていることに耳を傾け、報道資料の裏側に隠れていることをえぐり出すことも、それに劣らず重要なことだ。
2021年の1月7日告示、24日投開票という知事選の日程が明らかになった頃から、吉村陣営も大内陣営もそれぞれ、調査機関を使って世論調査を実施している。具体的な支持率も漏れ伝わってくる。なぜ、それを1行も書かないのか。「選挙報道とはそういうもの」と思い込み、抜けきれなくなっているのではないか。
一線の記者以上に、編集幹部にそうした報道を変えていく覚悟があるかどうかが問われている。
◇ ◇
冒頭で「天地がひっくり返るような価値観の転換」と書いた。それは先の戦争の敗戦のことであり、8月15日という明確な日付のある転変だった。
私たちは今、それに匹敵するような「価値観の大転換」の時代をくぐり抜けつつある。1989年の冷戦終結の頃から世界の政治と経済はがらりと変わり始め、人々はグローバル化という大竜巻にのみ込まれていった。
情報技術(IT)革命がその変化を加速し、新自由主義というイデオロギーが竜巻に勢いを与える。加えて、コロナ禍が暮らしと生活を強引に変えていく。
ただ、その変化には「8月15日」のような明確な転換点がない。時間軸は長く、ゆっくりしていて気づきにくい。だが、気づいた時には、まるで異なる風景が広がっていることだろう。
政治と報道に携わる者はその風を捉え、その流れに敏感でなければならない。この国にはそういう人間が少なすぎる。知事選に立候補する二人からも、そうしたことを見据えたメッセージが伝わって来ない。
前途は厳しい。あの敗戦の時のように、私たちはまた「滅茶苦茶な中」から立ち上がり、新しいものを創っていくしかないのかもしれない。
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年1月号に寄稿した文章を若干手直しして転載したものです。
≪写真説明&Source≫
◎山形南高昭和十九年組の同窓会旅行(1998年、羽黒山にて
)。前列左端が千歳貞治郎氏(『山形南高昭和十九年組 喜寿記念誌』から)
≪参考文献&記事≫
◎『山形南高昭和十九年組 喜寿記念誌』(2008年発行、非売品)
◎『定本 ガダルカナル戦詩集』(吉田嘉七、創樹社)
◎AERA2017年5月1日~5月8日合併号「現代の肖像 吉村美栄子山形県知事」
◎2009年1月26日付の新聞各紙
◎『平田牧場「三元豚」の奇跡』(新田嘉一、潮出版社)
◎『商港都市酒田物語 新田嘉一の夢と情熱』(粕谷昭二、荘内日報社)
◎東北公益文科大学の公式サイト「理事長あいさつ」
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