20世紀の夢を追う知事、未来を託すのはつらすぎる
大きなニュースがあれば、小さなニュースは吹き飛ばされてしまう。切ないけれども、それは避けられないことだ。
新聞の紙面には限りがある。テレビニュースにも時間の枠がある。新型コロナウイルスのような大きなニュースがあれば、ほかのことが入り込む余地は極端に少なくなる。取材する記者も「コロナ関連の話題」を追って走り回る。
そのあおりで影が薄くなってしまった県内ニュースの一つに、自民党の「次期知事選挙の候補者選び」がある。
山形県の吉村美栄子知事は2009年に自民党が支援する現職を破って初当選した。その後は無投票で再選、さらに三選された。政権党にとって、とりわけ保守基盤が厚い山形の自民党にとってつらいことである。このままズルズルと四選を許すのか。県民の関心は高い。
昨年9月、自民党県連の会長に就任した加藤鮎子衆院議員は「(3度目の)不戦敗はあり得ない」と述べ、2021年1月の知事選では独自候補を擁立する方針を明らかにした。「候補者は公募で決める」と宣言し、今年の2月末締め切りで候補者を募った。
山形市選出の大内理加(りか)県議がまず、名乗りを上げた。続いて、山形市出身で国土交通省から復興庁に転じた官僚の伊藤洋(よう)氏も意欲を示した。この頃までは、メディアも2人の経歴などを丁寧に報じていた。
ところが、3月末に山形県内でも新型コロナの感染者が確認されるや、報道は「コロナ一色」に染まっていった。公募に応じた2人による討論会を開くこともできない。暮らしや経済への影響が大きく、外出自粛が続く中ではやむを得ないことだった。
この間、実は深刻なことが進行していた。事情通によれば、知事選の公募に応じた2人について自民党本部が「身体検査」を実施したところ、片方は「候補者として不適格」という判定が下されていたのだ。
自民党の「身体検査」の主な判定基準は二つ、金と色、である。政治資金や資産についてはどちらも問題はなかったが、伊藤氏は2番目のハードルをクリアできなかったという。さまざまな噂が飛び交っているものの、確たることは分からない。
いずれにしても、3月下旬には「伊藤氏は降りる」という方向が固まっていた。山形新聞が「伊藤氏、公募申請を取り下げ」と短く報じたのは4月11日。本人が自民党県連の加藤鮎子会長あてに「一身上の都合で辞退する」と届け出た、という内容だった。
取材した記者は舞台裏で飛び交った話をたくさん聞いているはずなのに、1行も書いていない。「裏付ける証拠がないから」と言い訳するのだろうが、こんな書き方しかしないから「新聞離れ」が進むのではないか。
少なくとも、自民党本部の調査によって伊藤氏に「一身上の都合」が生じたこと、その結果、公募申請の取り下げに追い込まれたことが分かるように書くべきだろう。
伊藤氏が辞退したため、自民党は身内の大内理加氏を知事候補にかついで戦うしかなくなった。「選挙にめっぽう強い女性県議」ではあるが、それは選挙区の山形市内でのこと。米沢や鶴岡、酒田には何の足場もない。
「吉村知事の人気は高く、支持基盤も厚い。四選出馬を決めれば、大内氏に勝ち目はない」という観測がもっぱらだ。先読みが得意な人は「彼女の狙いは次の参院選ではないか。たとえ知事選で敗れても、有力候補として名乗り出ることができる」と見る。確かに、自民党県連は「次の参院選の候補者」のめどが立たず、窮している。
肝心の吉村知事はまだ、去就を明らかにしていない。山形新聞が「四選出馬についてどう考えているか」と水を向けても、「期待する声が大きくなってきている。大変ありがたいことだと思う。しかし、今はしっかりと県政にまい進することが私の最大の役割で使命」と受け流している(2月3日付の記事)。余裕しゃくしゃく、である。
山形県の自民党にとって、知事選はずっと「紛糾の種」になってきた。
2005年の知事選では、自民党県議の多くが現職で四選を目指す高橋和雄知事を推したのに、高橋氏とそりが合わない加藤紘一衆院議員は日銀出身の斎藤弘氏を担ぎ出して争った。
分裂選挙の結果は、4千票余りの僅差で斎藤氏の勝利。現職の高橋氏が74歳と高齢だったこと、それに「笹かまぼこ事件」が響いたとされる。高橋氏が不在の折にゼネコン大手の幹部が2000万円の現金入りの笹かまぼこを知事室に置いていった事件である。高橋氏はすぐに返したが、「金権体質の現れ」と攻撃され、打撃を受けた。
この時の遺恨(いこん)が2009年の知事選に影を落とした。民主党や社民党が担いだ吉村美栄子氏を高橋陣営や岸宏一参院議員、一部の自民党県議が応援したのだ。自民党は再び分裂状態に陥り、吉村美栄子氏は1万票余りの差で現職の斎藤氏を破り、知事の座を射止めた。
加藤紘一氏は2005年の知事選では「産婆役」として、2009年には「墓掘り人」としての役割を果たした。そしてさらに、吉村知事の無投票再選に終わった2013年の知事選でもキーマンになった。
その前年、2012年に加藤氏は健康を害し、歩くのも困難な状態のまま12月の総選挙に臨み、同じ自民党系の阿部寿一氏(元酒田市長)に敗れた。自らの選挙区で保守分裂の選挙を繰り広げたうえ、高齢のため比例東北ブロックでの重複立候補も認められず、比例復活で議席を確保することもできなかった。
かつて、自民党の名門派閥「宏池会」のプリンスと呼ばれ、一時は有力な首相候補でもあった加藤氏の惨めな敗戦に、自民党県連は混乱状態に陥る。年明けにあった知事選には候補者を立てることもできず、吉村美栄子氏に再選を許す結果になった。
意地の悪い見方をすれば、加藤紘一氏こそ「吉村知事誕生の伏線を張った功労者」であり、「2013年の無投票再選の立役者」と言える。
自民党県連の元会長、遠藤利明衆院議員も「吉村県政への貢献度」では、加藤氏に引けを取らない。
2016年夏の参院選で、遠藤氏はJA全農山形出身の月野薫氏を自民党の候補者として担ぎ出した。当時の最大の争点はTPP(環太平洋パートナーシップ協定)に反対か否か。対立候補の元参院議員、舟山康江氏は強硬な反対論者で農民の支持を集めていた。
遠藤氏は「全農出身の候補者を立てれば農協票は割れ、それに頼る舟山陣営を切り崩すことができる」と踏んで、月野氏を擁立したようだが、肝心の候補者本人に魅力が乏しかった。結果は12万票の大差での敗北。遠藤氏はその敗戦処理に追われ、翌2017年の知事選対策どころではなくなった。
結局、吉村知事に挑戦する者は現れず、無投票での三選を許した。遠藤氏の選挙下手のおかげ、と言うべきだろう。ちなみに、今回、知事候補の公募に応じた伊藤洋氏を引っ張ってきたのも遠藤氏という。つくづく「人を見る目」がない。
遠藤氏は「フル規格の奥羽、羽越新幹線の建設」を唱えている。地元の山形新聞がキャンペーンを張り、吉村知事が力を入れている政策だ。これに後追いで乗っかった。フル規格の両新幹線建設構想が時代錯誤の政策で、実現の可能性がおよそないことは、すでに何度も書いた。「時代の流れを読む力もない」と言うべきだろう。
そもそも、山形県の自民党は本気で吉村県政を倒す気があるのだろうか。
吉村知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いる企業・法人グループにはこの10年で40億円もの公金が流れ込んでいる(表再掲)。その詳細はこれまで、月刊『素晴らしい山形』で報じてきた通りだ。
もっとも多額の公金が支出されているのは、和文氏が理事長を務める学校法人、東海山形学園である。毎年3億円前後、多い年には10億円を超える私学助成が支給されている。なのに、その学校法人からグループの中核企業、ダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)に3000万円の融資が行われたりしている。学校法人の監督権限を持つ山形県はその内容を調べようともしない。
当方が独自に調べるため、学校法人の財務書類の情報公開を求めても、「当該法人の利益を害するおそれがある」との理由で肝心な部分を開示しない。「非開示は不当」と裁判に訴え、仙台高裁で開示を命じる判決が出ても、最高裁に上告して開示を引き延ばす。
吉村知事が観光キャンペーンを始めれば、県幹部が露骨な方法でグループ企業に業務委託をして潤わせる。その幹部が抜擢され、出世していく。知事が奥羽、羽越新幹線の建設を唱え始めれば、その関連業務もまたグループ企業に委託するーー。
中国の故事「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠を正さず」に反するどころではない。吉村一族企業は、瓜(うり)畑にずかずかと入り込み、スモモの木の下にブルーシートを張って幹を揺さぶり、収穫して恥じるところがない。
次の知事選に本気で取り組もうとするなら、自民党はこうした問題を一つひとつ追及し、吉村知事の下で何が起きているのか、明らかにする必要がある。
長期県政による澱(よど)みを許さないように、知事の多選を制限する条例を制定することも考えられる。
2003年に東京都の杉並区が多選自粛条例を制定して以来、神奈川県が2007年に「知事は連続3期12年まで」との条例を作るなど、すでに先行例が多数ある。いったん制定した条例を廃止した自治体もあり、難しい面もあるが、山形県のように同じ人物が権力を握り続け、専横と腐敗を招いた歴史がある土地では試みる価値が十分にある。
県議会で過半数を握る自民党がその気になれば、すぐにでも制定できる条例だ。その条例を突き付けて、吉村知事の四選出馬を牽制することも考えられる。
要は、自分たちが住む土地をより良いものにするために、次の世代により良いものを残すために、何かを為す気概があるかどうかだ。その気概があるからこそ、政治を志したのではないのか。
吉村県政の1期目は新鮮だった。前任の斎藤知事の冷たい政策に凍えていた県民の心を包み込むような温かさも感じた。けれども、2期目以降、高い人気を背にして「おごり」が見え始めた。知事に当選した際のキャッチフレーズ「温かい県政」は、いつしか「身内と取り巻きに温かい県政」に転じていった。
救いがたいのは「時代の流れ」にあまりにも鈍感なことだ。情報技術(IT)革命が進み、変化のスピードが増しているのに、まったく対応できていない。山形県庁はいまだに「紙とハンコ」で仕事をしている。行政事務の電子決裁化はロードマップすらない。
トップに「このままでは時代に取り残されてしまう」という思いがないからだろう。フル規格の新幹線建設などという「20世紀の夢」を追い続ける人物に、次の4年を託すのは耐えがたい。私たちに続く世代は、21世紀の後半を生きなければならないのだから。
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年6月号に寄稿した文章を若干手直しして転載したものです。
*「表再掲」をクリックすると内容が表示されます。
*加藤紘一氏は2016年、岸宏一氏は2017年に死去。
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