スターリンの原爆開発と戦後世界」を読んで
「スターリンの原爆開発と戦後世界」を読んで
平成30年8月
仲津 真治
1) 「本多 巍耀」(ほんだ たかあき) 氏の大著
「スターリンの原爆開発と戦後世界」を読んで
私の同年配の友人で、日独協会などで御縁の「本多 巍耀」氏が、またまた大
部の著作をものにされました。 そして、有り難いことに、私に贈呈下さいまし
た。書名は 「スターリンの原爆開発原爆開発と戦後世界」と言う四百頁近い大
著でして、この程何とか読み終えましたが、此処に御礼を兼ねて、私の印象と所
見を記したいと思います。
もとより、大部の力作ですし、とても内容の御紹介など出来ませんが、その片鱗
にふれる事でも出来ればと存じます。
本多氏の文才にはかねてから圧倒されて参りましたが、本作においても、広範囲
の文献、回想録、公文書、電文を閲覧し、参考とし、また、諸資料を渉猟され、
これをこの大作にまとめられていますので、感服致します。
以下、そのあらましとします。
2)スターリンの原爆開発
スターリンが何よりも恐怖の念を抱いたのは原爆でした。斯くて、この独裁者は
西側の原爆独占を打破するため、「何が何でも、これを作り上げろ」と厳命した
由です。
良く知られているように、アメリカ側の原爆開発計画はマンハッタン計画と呼ば
れていました。 此の計画の中枢に食い込んで、その秘密の研究開発事業の中か
ら、所定の情報を盗み出したのは、アメリカ人のスパイのローゼンバーグ夫妻と
聞いていました。
だが、著者の記すところに拠れば、ローゼンバーグ夫妻は確かに、原爆スパイ機
構の一角におり、相応の貢献をした由ですが、この原爆スパイ組織の全体を統括
していた機関は、お馴染みのソ連の「KGB」で、その責任ある職員はフェクリソフ
と呼ばれる人物だった様です。 このフェクリソフ自身はKGBの職員ですから、
組
織を動かし、人を使うものの、通例自らはスパイ行為はしない由です。
もっとも、著者は主に、ソ連邦英雄勲章までもらった、このフェクリソフが、後
日に記した回想記から、その活動の諸相を把握した由です。
このフェクリソフと繋がった、マンハッタン計画の研究所に居る専門家
こそ、ウラン-235ガス拡散分離研究所に勤める「クラオス・フックス」と言いま
した。このように、スパイ組織の下に居て、指示を受ける人物をエイジェントと
呼ぶようです。
この人物は、このウラン-235ガス拡散分離に懸かるトップ・クラスの研究者でし
たから、関連する研究に関する諸情報を含め、結局、多くの機密情報がソ連側に
流出することとなりました。 その中には、テネシー州オークリッジに建設され
たガス拡散分離にかかる工場関連のことも包含していたようです。その後、研究
開発の進展に伴い、フックスはロス・アラモス研究所にも居たりしている様です
が、其処での経験を始めとして、また、ソ連側が知りもしなかったプルトニウム
型の原爆のことや爆縮のノウハウに懸かることまで情報を取得し、漏洩させた由
です。
謎めきますが、何故、ここまでフックスは、ソ連側に徹頭徹尾協力したのでしょ
う。
この事について、著書は、彼がユダヤ人であること、共産主義者であること、反
ユダヤのナチズムをソ連が潰してくれたと感謝していたことを諸資料から明かし
ています。 どうやら、此の人物は真底のソ連信奉者であって、現に報酬などは
「不快」として寧ろ受け取っていないのです。
斯くまでの太いルートがあったとすると、ソ連の原爆開発が相当の短期間で達成
されたこと(1949.8.29 初の原爆実験 アメリカに遅れること約四年)や、それ
もプルトニウム型であったことが納得されます。
現に、 ソ連側の原爆開発の有力な責任者であったクルチャコフ教授などは、主
として、このフックス情報をもとに、プルト二ウム原爆の開発に成功したとして
おり、そのため大いに其処に注力した様です。
なお、その後英国に居たフックスは、同国のMI5と言う機関によって、スパイ容
疑で逮捕され、1950年市民権剥奪の上、14年の実刑に服した様です。そして、
1959年に釈放、当人の希望により、東独に移住、同国の核物理研究所の理論物理
学部長に就任した由です。 その後、何と中国側から密かにアプローチがあり、
それは同国の原爆製造に繋がった模様です。
追って、フックスの自供は、その後のローゼンバーグ夫妻の処刑にも、繋がった
と申します。
3 ) ソ連がドイツとの戦争から習得したもの そして戦後、そして今日の世界で
は?
著者によれば、独ソ不可侵条約が結ばれた1939年8月、実質、その結果として、ポー
ランドという国などが独ソの分割により無くなり、独ソ両国はただ、一本の国境
線で分けられるようになりました。 それにより、緩衝地帯や間に立つ国・地域
などがなくなり、結果として、軍事力で優位に立つ独側の対ソ侵攻を誘発するこ
ととなったのです。
斯く結局、1941年6月独ソ戦勃発に至ったわけですが、スターリンは、この経験に
鑑み、第二次大戦後半から、失地回復したソ連の西側に分厚い衛星国群を置くこ
とを強く志向します。 そり結果として、バルト三国のソ連編入、ポーランドの
復活、オーデル・ナイセ国境線の形成、その西側に東独を建国、ドイツの東西分
割、チェコ・スロバキア、ハンガリーなどの諸国が出来上がります。これで、ス
ターリンソ連の安心感に繋がったと見られます。
更により長期的には、西欧諸国に対して、国際共産主義運動の荒波を被せ、揺さ
ぶれば、各国・地域に在る共産党が人々を立ち上がらせ、やがて、不安定さを高
めて、各国・地域の権力が共産側の手に落ちるだろうと見ていたのかも知れませ
んね。
そう言えば、東風が西風を圧するとは、当時の共産陣営の強気の宣伝だったの
です。
4) 話をベルリン封鎖に戻す マーシャル・プランに対抗して取られたソ連側
の強攻策
こうした戦後間もなくの騒然とした世情の中、西側は果敢にヨーロッパの安
定、復興を企図し、行動を起こしました。 それが最も大きく形を成したのは、
マーシャル・プラン(欧州復興計画)です。) マーシャルその人とは前参謀総長で
トルーマン大統領により、バーンズの後任に任命された米国務長官でした。
対して、ソ連は、「我々は敗戦国ドイツから巨額の賠償を受けなければならない、
対独復興支援などとんでもない」と言い、実際、東ドイツなどのソ連地域から、
鉄道撤去など、強制的な強奪に近い行動に出ました。
斯くて、事態が膠着に陥った中、「最早待てない。 行動を起こそうと、マーシ
ャルは訴えました。それは1947年6月5日のハーバード大学卒業式での歴史的な
講演に於いてでした。内容は総額約百億ドルという、莫大な額の、欧州経済統一
のための力強い支援表明でした。
これは、間もなく効果を表し、戦災を受けたヨーロッパの西と東で、経済の
統合、復興、再生に顕著な差が出てきました。
対抗して、スターリンが強く打ち出したのが、西側を参らせようとする、ベルリ
ンの封鎖でした。 東独内に孤立した西ベルリンへの陸海空の通路を実質的に封
鎖し、エネルギーの供給を止め、人々を飢えさせ、途端の苦しみを与え、西側諸
国を追い込もうとしたのです。 ソ連の原爆保有の直前で、東西の冷戦はこれで
最高潮に達したのです。この封鎖は、1948年6月24日に開始され、翌年5月13日ま
で続けられました。まる一年も西ベルリン市民は耐え、西側諸国は凌いだのです。
輸送力の確保と運航には凄まじい努力が払われました。二分に一機とは私が子供
心なりに記憶している頻度です。それに後年、実用化されたジャンボジ
ェット機などは、実を言うと、このときの過酷な体験が生んだ成果と申します。
しかし、その後も続いたソ連圏の支配は、東欧・中欧諸国などからすれば迷惑至
極も良いところで、やはり、欧州全体の安定を決してもたらさず、結局、冷戦の
終焉とともに、バルト三国の離脱・独立、東欧・中央各国の独立・民主化、ドイ
ツ再統一、ソ連の解体、旧ソ連内各国の独立などへと繋がりました。
これで、旧ソ連という旧ロシア植民地帝国は解消されたことになりますが、
斯くて、欧州始め全世界の安定がもたらされるか、其処が大いに希求される所
です。
5) 極東では、朝鮮戦争(1950.6.25 ~1953.7.27)という熱戦が起き、今日になお
休戦状態が続きます。
東西の冷戦は、ベルリン封鎖で頂点に達し、その後紆余曲折を経て、1989年に
終焉を迎え、世界の構造を大きく変えますが、極東では対立に止まらず、大規模
な軍事衝突まで起き、今なお停戦協定に止まる状況が持続しています。
この大きな動因は、「北朝鮮軍による戦車を前面に押し立てた計画的な韓国侵攻」
でしたが、それを誘発した幾つも在る切っ掛けで最大のものは、時のアチソン米
国務長官の、「アリューシャン・スピーチ」と呼ばれる「アメリカの極東防衛ラ
インから韓国を外した声明でした。
これで、韓国制圧、朝鮮半島の統一を強く志向する金日成は、「我々が武力解放
に踏みきっても、アメリカは干渉しない」との想定と判断をしました。そして、
これを最終的にはスターリンが支持し、既に北京政権を樹立していた毛沢東も同
意したのです。
しかし、実際に北の侵攻が始まり、韓国軍が総崩れとなり、韓国政府が敗走を始
めると、「民主国韓国を、共産側の侵略から守れ」という声が、国連の内外で沸
騰しました。 斯くて、国連安保理の決議が可決・成立すると、アメリカを主力
とする強力な国連軍が結成され、やがて反撃が始まります。 中国の国連代表権
問題で代表が欠席していたソ連は、拒否権を行使せず、この決議の成立を許し、
国連軍の錦の御旗がはためくこととなりました。
それにしても、疑問とされるのは、アチソン声明です。 実に不用意な発言でし
た。 これで、闘志に滾った金日成が誤判断をし、スターリンや毛沢東が同意、
大規模侵攻が始まったのです。
この教訓から、以降、アメリカは米韓同盟を守り、韓国からの撤退を口にしなく
なりましたが、いろいろ揺れる言動があることは確かです。只、当のアチソン国
務長官自身が、かかる声明を発してしまい、北の侵攻を招いてしまったことを
どう評価したかについて、どうも資料が無いようです。ここは極めて大事なポイ
ントと思われる所です。
その後の変遷や諸変化を踏まえながら、日本を始め、極東の安全保障を、強く注
視し、抑止すべきは、抑止すべき所と思われます。
6) マッカーサー総司令官の解任
朝鮮戦争は、その後、釜山近郊の洛東江付近での国連軍の善戦などに加え、
1950年9月15日の仁川上陸作戦の成功によって、形成は大逆転し、38度線より北に
前線を押し返しました。 この作戦の効果は大きく、しかも圧倒的な海空軍の優
位によって、共産側からほぼ朝鮮半島全体を取り戻しました。
しかし、この優位は中国人民志願軍の大規模介入を招くこととなりました。
それは、1950年10月頃から開始された由です。 まるで、地面からまるで人が沸
くように、攻勢を掛けてくる形容されたチャィナの大軍の南下侵攻を、著書は
「人津波」と描写しています。
この人津波を凝視して、剛毅のマッカーサー総司令官と言えども畏怖したようで、
或る事を言い出しました。 それは、既にアメリカが相当多数装備するようにな
っていた原爆の使用です。
現地の戦況は、1951年の1月中旬頃には再逆転し、共産側の再南進は食い止められ
ていました。 しかし、マッカーサーは更に、この再優成を決定的なものとする
ため、凡そ三十発に及ぶ原爆の使用を願い出た由です。それは、法制上、米大統
領のみの権限に属していました。
現地の戦況は、1951年の1月中旬頃には再逆転し、再南進は食い止められていまし
た。 しかし、マッカーサーはこの再優成を更に決定的なものとするため、凡そ
三十発に及ぶ原爆の使用を願い出た由です。だが、それは、法制上、米大統領の
みの権限に属していました。
斯くて、トルーマン大統領は、大物とはいえ、現地総司令官に止まるマッカーサー
の懸かる提案を実に不快とした様です。諸々の遣り取りの末、1951年4月11日、
その解任を決し、その通告をブラッドレー統合参謀本部から送らせました。
その根本の趣旨は、文民統制でした。トルーマン大統領は、その通告の中で、
この文民統制の趣旨を基本中の基本としています。後任司令官には、リッジウェ
イ大将が任命されました。
日本国内は突然のマッカーサー解任に、蜂の巣をつついたような騒ぎとなりまし
た。
だが当人は、静かに、この事態を受け容れ、宮中に参内、御挨拶をして、離任致
します。
また、元帥位はそのままで階級剥奪はされませんでした。
これは、将にイポックメイキングなことで、民主国アメリカに於ける、軍の文民
統制の基本が揺るぎないことを実証したものを考えます。
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