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ソビエト連邦史を読み解く

2017.03.12 Sun
政治

今年は1917年のロシア革命百周年です。そして、その2017年2月に「下斗米伸夫」(法政大学教授 法学博士)著の「ソビエト連邦史1917-1991 」が刊行されました。三百頁に近い講談社の学術書ですが、興味深く読みました。この分野の第一人者とされる人の著作で有るだけに、関係者との面談を含めて良く調査され、膨大な文献や諸情報に粘り強く当たるととに、それらを整理・体系化されていました。そして大きな流れを持つ作品に仕上がっています。

この著作は、二十世紀最大の事件とされ、党が国家であった時代を具現せるソ連の全体像が、簡潔な叙述で読みやすく呈示されているように思います。凄いという印象を持ちました。以下、私見を交えながら、幾つかのポイントを簡単に記しましょう。

(1) まず、共産党一党独裁のソ連体制が崩壊して早や四分の一世紀も経つというのに、未だに公開されない資料、議事録、文献等が結構有るため、今日でも良く分からない事が多々あると言うことです。秘密主義のソ連共産党やソ連国家などが無くなったいま、そうした管理・統制は誰がしているのでしょうか。

或いは、諸々の問題が実は今も尾を引いているので、利害関係のある関係機関や組織或いは個人等が、それらを今日でも抱えているのでしょうか。これらは、読後も懐くことになった大きな疑問です。「五十年経てば資料公開」のような制度の出来ることが望まれます。

とはいうものの、著者は現地滞在等を含め、能う限り、資料などを収集、冷徹な分析を加え、滑らかな筆致で、この書にまとめ上げています。文中、推測などが少ないことが著著の努力の表れと思います。
(2)早すぎたという、1917年のロシア革命

それにしても、この評価は意外でした。

当時、第一次世界大戦の渦中にあったロシアは、1917年苛烈な総力戦に耐えられなくなり、2月にロマノフ王朝の体制が崩壊、所謂ケレンスキーの2月民主革命によって臨時政府が出来ます。その主張は、農奴の帝政ロシアを打ち破り、自由と民主主義を基本理念とする体制を建てんとするものでしたが、ドイツ等との戦争は続きました。
すると、4月に亡命先のスイスからドイツ参謀本部の秘密裡の手配によってレーニンが当時の首都ペテログラードに帰国します。レーニンは、ここで「全権力をソビエトに」という有名なテーゼを、主張し始め、急進的な行動を起こします。
それは、当時の革命派中央(ビューロー)の考えと違っていたと
申します。しかし、レーニンは自分たちを多数派、即ちボルシェビキと称し、既に出来ていた臨時革命政府の体制を壊し、取って代わろうとしたのです。その時、実は、工場労働者などはロシアにほとんど居らず、ボルシェビキの実質は農民と農家出身の兵士でした。然るに、レーニンは独自の考えから、懸かる急進的行動を起こしたのです。斯くすると、ロシア革命も実質は、毛沢東の農村主導の中国革命と実質は余り変わらなかったのかもしれないと思われてきます。

斯くて、後日結成されるソ連は、当初から大きな問題を内包していたことになります。

この点について、後年ソ連最後の共産党書記長となったゴルバチョフは、1997年に実は「1917年革命が、2月民主主義革命の段階で止まっておれば良かった。」と語った由です。つまり、早すぎたと言うわけです。これはソ連最後の最高指導者の言だけに、大変重いものが有ります。

なのに、なぜレーニンの急進的行動が結局成功を納めたか、著者は縷々記していますが、要は、レーニンの滑らかに弁舌による説得力と、それに触発された農民の思いと支持による由です。世の中、変わるときは速く、僅かな作用が大変化をもたらすようです。
注目されるのは、著書がこの1917年ロシア革命と、1989年から1991年に掛けての冷戦終焉、東欧革命、ソ連崩壊に至る流れの類似性を指摘していることです。それは、「本質は崩壊」と言う事です。
(3) レーニンの遺言は、スターリンが無視したのに、その後何度も引用されたこと

指導者レーニンは、スターリンの質(たち)が粗暴として、ボルシェビキのトップから、同人を外すつもりでいたのに、果たせない内に1924に亡くなります。遺言が残されていました。その趣旨はレーニン夫人始め、幹部何人かに良く知られて行きました。

しかし、スターリンはこれを無視、党の手続きにより、書記長に就任、党内全権力を掌握し、首相ともなり、独裁者となって行きます。

ただ、この遺言の事は忘れられること無く、折を得て引用されています。最も効果的であったのは、1953年のスターリン死後ですが、スターリン批判の走りのようなことが始まったとき、「レーニンは実はスターリン排除の遺言を残していたこと、然るにスターリンはそれを無視していたこと」が公然と語られ、その後の権力の帰趨に影響を与えた事でした。
(4) モロトフの存在と役割

党の中枢であるスターリンを陰に陽に支えてきた幹部がモロトフでした。党はもとより、政府でも首相や外相の要職を務めました。その大切な役割は徹頭徹尾スターリンを支持し、そのために、諸々の労を取ることでした。晩年は、スターリンに批判され、中枢の人ではなくなりましたが、モンゴル大使などに就き、活躍します。夫人はユダヤ人と言う事もあって三年間程カザフスタンに追放されますが、それでも「スターリンは大変な重責を背負っている。」と同情しています。

こうしたこともあって、著書は、ソ連の党と国家を描き、理解するための本著の構成を考えるに当たり、モロトフを補助線と位置づけて、主人公に近い描写をしています。

そして、スターリンとモロトフが、息を合わせた決定的な役割を果たすのは、農業の集団化と、粛清、それに囚人と収容所、それらで動かす工場でした。加えて対外関係では、社会帝国主義ソ連が如実に表れて来ますが、それらを実質決定し、推進したのはスターリンであり、モロトフが支えました。本書を読むと、その事が良く分ります。主従の関係にありながらも、決定者=独裁者は二人いたのです。
(6) 戦争のような農業集団化など

所謂ネップの段階を過ぎると、共産党指導下の農業集団化が始まりました。主に有名なコルフォーズの導入です。凄まじい反対と抵抗が起き、犠牲者・逮捕者が極めて多く出ました。一千万人単位の抵抗が生じたと言われ、約四年間で、実戦に優るとも劣らぬ戦争のような情況が現出したと申します。それは最も端的に言えば「クラーク」(富農)退治と言うべきものでしょう。死者、逮捕者、追放者は夥しい数に上ったとのことです。そのピークは、1933年から1934年であったと申します。

特に穀倉地で有名なウクライナでは、その凄まじさから、反集団化の恨みが根深く広範に残り、後年、独ソ戦における多くの対独協力者の出現に繋がったと言います。
(7) 大粛清

強制的な農業集団化や強引な重工業化が所謂五カ年計画等で推し進められる一方、反対や異論、慎重論、サボタージュなどに対しては、徹底した弾圧と抑圧が展開されました。

これらについては、後年の1987年から「ヤコブレフ」を中心とする委員会が設置され、スターリン時代の粛清を民間も含めて調査し、明らかにされています。報告に依れば、何と二百四十万人強に上る人々が司法外で、刑事上の処分を受けたことが判明したと申します。そして、トータルでは、2000年1月までに四百万人以上の人々の名誉が回復された由です。恐ろしい数の犠牲が生じていたことが分ります。
この大粛清の一環として、1938年からは、トハチェフスキー元帥以下、有力な赤軍幹部などへのスパイ容疑による摘発が行われました。これは、要はスターリンのソ連軍人への疑心暗鬼に根差したものの由、多くの赤軍将校が処刑されたと申します。
この結果、ソ連軍の士気や質は著しく低下し、ためにスターリン等が始めた対フィンランド侵攻では(所謂 冬戦争1939年11月から、1940年 3月)、二週間ほどで全土を制圧出来ると見ていたのに、フィンランド側の果敢な抵抗に出遭って、勝利できず、クーシネンの傀儡政権の樹立も果たせなかったのです。ソ連側の戦死者は二十万人に達し(スターリン批判を行ったフルシチョフの説では約百万に及んだと言う。対して、フィンランド側は十二万人強)、カレリア地方などフィンランド国土の約一割を割譲させたものの、実質的なソ連側の敗北でした。
この事は、独ソ不可侵条約に依り、その秘密議定書と相俟って、ポーランドの分割やバルト三国のソ連側への実質編入など、独ソの勢力圏を取り決めたばかりの、独ソ両国の以後の対応に影響し始めました。つまり、ソ連軍のあまりの弱さゆえ、ドイツ側の認識を改めさせることになったと言うのです。

斯くて、独ソ不可侵条約締結以来、蜜月が続いていた独ソ間には微妙な気配が流れるようになり、「弱い間にソ連を叩け」という考えがドイツ側に支配的となって、遂に1941年6月の独ソ開戦に至ります。「第一次世界大戦の経験から、東西の二正面作戦を避ける」という基本方針は、詰まるところ貫かれなかったのです。
案の定、独ソ開戦後、緒戦においてソ連は大敗します。膨大な損害を被り、スターリンは余りの被害の大きさにに周章狼狽し、指導を一時放棄したと言います。その間モロトフらが代行したようですが、このスターリンの逃避と職責放棄は、後年のフルシチョフによるスターリン批判の一因となります。
(8) 膨大な収容所群

諸々の要因は有りましょうが、詰まるところ独裁者スターリンの猜疑心の強さが災いして、ソ連国内には夥しい収容所が作られます。そして、政治犯など諸々の被せられ、人々が収容されますが、その数は1953年3月のスターリン死亡時のピークで、二百四十七万人強に達したと言います。

それは、ソルゼニツィーンの大作に出てくるように、収容所が群島の如く列を連ねていた由、実に恐ろしい景観ですね。それに、被収容者は単に囚人と言うだけでなく、其処は秘密の工場や研究所でもあり、軍需品や核兵器なども製造されていたとのことです。

(9) 此処で話は飛びますが、バルト三国併合は違法であり、それは結局、ソ連の解体に繋がったと言う事。

エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国は第一次世界大戦の結果、帝政ロシアから独立し、ソ連に加盟していませんでしたが、1939年の独ソ不可侵条約の裏の効果として、ソ連側の勢力圏とされ、1940年次々とソ連に併合されます。
しかし、時が経ち、時代は大きく変化します。既に冷戦終了後となっていた1989年の12月、第二回人民代議員大会において、所謂往時独ソ間の「リッペントロップ・モロトフ協定」が取り上げられたとき、著書に依れば、ヤコブレフが、この事を含めて演説し、そこで、「スターリン、戦後の発展、バルトの沿岸などでの世論」に触れ、「ついには真実を語らなければならない、精算しなければならない」と感動的に締めくくったのです。斯くて、このヤコブレフの演説により、「1939年8月23日の独ソ間の秘密議定書]は、「その事情においても内容においても、ソビエト外交のレーニン主義的原則に反している」「スターリンとモロトフが、ソビエト人民、最高会議、そしてソビエト政府から極秘裏に進めたものであって、批准の手続きも経ていないものである」と初めて非難されたのです。
これは画期的且つ驚くべき事です。これで、バルト三国のソビエト連邦併合が違法と判断されたのです。
これを受けてのバルト三国の動きには素早いものがありました。まず1990年、リトアニアが独立を宣言、翌年8月ソ連クーデターの折り、三国揃ってソ連から離脱し、独立に踏み切ったのです。

バルト三国の独立は、ソビエト連邦全体に大きく影響しました。従来の十五カ国から成っていた連邦構成国は、残り十二カ国でまとまりを続けることには、不熱心となったのです。

ここに、ロシア、ベラ・ルーシ、ウクライナの三カ国の協議がなされ、連邦を存続させるのではなく、解体し、各国が独立し、独立国家共同体(CIS)を形成することが合意されました。1991年12月の事です。
(10) スターリン死後の変遷と崩壊

注目したいのは、フルシチョフ後、指導部を構成したブレジネフの時代、それまで長く混乱と動揺の続いたソ連ですが、何と安定化の線を見せ、此の体制になって初めて飢餓、騒擾、粛清の無い時を迎えたことです。

だが、それは成長のない行き詰まりの社会でした。ブレジネフ時代の後半、経済はほぼ伸び率ゼロの時を迎えています。停滞の社会へとなって行きました。他方、1979年からアフガニスタンへの出兵を抱え、問題や社会の深刻さは増しました。

こうした中、自由が無く、批判の許されない社会で成長が止まるとどうなるか、ゴルバチョフが取って代わったとき、そこには危機感に満ちたものがあったのでしょう。

其処で始まったグラスノスチ、それはチェルノブイリの巨大原発事故で促された面もあるようですが、勢いとは出だしたら止まらないもののようで、ペレストロイカは、遂に此の体制を終演させるところまで行き着いたのです。件のクーデターがとどめを刺しました。

一見立派そうに見えた大木の根は実は腐っていて、初めから持病を抱え、枯死に至ったのです。短い国家の一生でした。
(11)拙補論
一時は世界革命まで視野に入れ、それなりの使命感にあふれたソビエト連邦は鉄壁と思われた体制を誇りましたが、僅か七十年余で瓦解しました。見方を変えて言えば七十年も良くもったとも思えます。

先ず、矢張り当初から無理が在ったと思われます。著者が始めに解き明かしている如く、レーニンのロシア十月革命に大いなる急ぎすぎ・走りすぎがあったのです。

次いで、アメリカ合衆国のブレジンスキー元補佐官が指摘している如く、「それは人類史上最大の愚行」でした。人類が自然に習得し、生み出した市場機構という知恵や仕組みに依らず、それに変えて、何と計画を世の中の重心に据え、その指令で動かそうとしたことです。

更に、共産党の指導的役割を不可欠の中心とし、全権力を共産党に集中、そのしかも中枢の党中央に実質一切の権限が集められました。共産党が上層に位置し、指導下に在る国家を実質所有しました。

そして、法制上の権力作用としては、民主主義による国民主権を否定、自由選挙無く、表現の自由を初めとする自由主義を取らず、それをベースとする三権分立を認めず、立法権、司法権、行政権の一切を共産党が掌握しました。

つまり、チェックアンドバランスは働きようがなく、法の支配も成り立ちようが無かったのです。

それに、ソビエト連邦は、帝政ロシアの権力に取って代わって、その領域上に成立した国家ですが、それはロシア植民帝国を事実上承継したものでした。それに引き替え、英仏に代表される、西側の列強は、世界大戦や内戦、反乱等を経て、植民地を独立させてきました。ソ連には、そういうことが無かったのです。バルト三国に至っては、ロシア革命後独立したのに、第二次大戦中のどさくさで再び併合されています。

ソビエト連邦の解体、各共和国の独立は、ロシア帝国が此処に遂に終演し、植民地も終わりを告げたと言う事でしょう。それは大いなる世界史的意義を持つことと思います。
なお、一つシンボリックなことを記します。此処で、ベリヤのことに触れて起こうと思うのです。ベリアはスターリンと同郷のグルジア人ですが、巧みに動いて党幹部となり、秘密警察を支配下に置き、核開発の責任者ともなっていました。しかし、スターリンの死後、路線や態勢が定まらない内に、西側の人脈・情報も得て、改革に走ります。これが党機関を握っていたフルシチョフなどから批判され、逮捕に至り、1953年末処刑されます。スターリンの治下に在って「知りすぎた男の悲劇」とも言われました。

此の当時、出版された「大ソビエト百科」の第二版では、この「ベリヤ」の項が削除され、代わりに「ベーリング海」の記述に差し替えられた由です。今や新時代になっているのに、未だこんなことが起きているのですね。恐ろしい感じがします。

因みに、ベリヤ復権の件は、ドイツ再統一が実現した1990年に浮上したと申しますが、未だに復権はありません。いろいろと根深い何かがあるのでしょう。


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