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「憂き世」を「浮世絵」で笑い飛ばす

2026.09.30 Wed

イラン戦争をはじめた米国トランプ大統領の言動を見ていると、我儘な子どもの振る舞いに思えてなりません。そんな折、町田市立国際版画美術館で開催されている企画展「うき世のたわむれ―笑いつづける浮世絵と幕末明治の渦」のポスターを見て、戦乱を子どもの戦争ごっこに見立てた浮世絵師たちの「遊び心」に興味を持ちました。そこで、多摩丘陵の芹が谷公園にたたずむ美術館を訪ねました。

 

お目当ての浮世絵は、第4章「将軍上洛もの、あわて絵、合戦絵、子供遊びもの」のコーナーにあり、「子供遊豆鉄砲の合戦のづ」というタイトルでした。三代目歌川広重(1842~1894)が戊辰戦争(1868~69年)を子どもに仮託した「子供遊びもの」シリーズの1枚です。子どもたちが豆鉄砲で遊んでいる情景なのですが、子どもたちは戊辰戦争に参戦した人物や藩を示唆する「判じ物」になっているようです。「判じ物」とは、模様や言葉などを手掛かりに人物や出来事などを当てる遊びです。制作されたのも慶応4年(1868年)ですから、まさにリアルタイムの浮世絵です。(下の図は三代歌川広重《子供遊豆鉄砲の合戦のづ》慶応4年(1868)、大判錦絵二枚続、町田市立国際版画美術館蔵)

企画展の図録『うき世のたわむれ―笑いつづける浮世絵と幕末明治の渦』(以下、「図録」)には、次のように解説されています。

 

右が旧幕府側、左が新政府側をあらわす。右側手前で銃を構えるのは庄内藩で、身をかがめて竹棒を突くのは会津藩である。また、右上で「仙台豆」の袋を持っているのが仙台藩で、その右隣が慶喜である。他方、左側手前が長州藩、その右奥が薩摩藩、左上にいるのが尾張藩である。

 

この浮世絵を買った人たちは、着物の柄が橋げただから一橋慶喜、絣の着物だから薩摩藩、萩の模様だから長州藩などと判じては、戊辰戦争の構図を知り、武士たちの争いを笑っていたのでしょう。

 

この時代の絵師たちは、戊辰戦争を描くことで幕府側あるいは新政府側から弾圧されることを恐れていたようで、広重も権力の介入を避けるため、「子供遊びもの」にしたようです。とはいえ、豆鉄砲を使うなど遊び心も十分に発揮されています。このシリーズの別の絵では、萩模様の子どもに背負われた幼児が描かれていて、長州藩にかつがれた明治天皇を示唆しています。新政府軍の戦略を鋭く描いているように思えます。

 

広重の初代にあたる歌川広重(1797~1858)も遊び心があったようで、「東海道五拾三次」の「御油」(現・愛知県豊川市御油町)では、宿場の客引きである「留女(とめおんな)」が旅人を強引に誘う様子がユーモラスに描かれています。「東海道五拾三次」は景色ではなく人間を描いていたのですね。広重の代表作と言うのもうなずけます。(下の図は歌川広重《東海道五拾三次之内 御油 旅人留女》天保4-6年(1833-35)頃、横大判錦絵、町田市立国際美術館蔵)

ところで、留女はどこの宿場にもいたようですが、広重が御油宿で留女を描いたのは、理由があったようです。恩油宿は次の赤坂宿との距離が東海道で最も短く、もうひと宿、先を急ごうとする旅人を引き留める留女の行動もすさまじいものだったようで、御油なら留女というイメージが広重にはあったのでしょう。この作品は、企画展の第1章「歌川広重の名所絵、戯画」のコーナーで展示されています。

 

この企画展でユーモラスといえば、なんといっても第2章「歌川国芳の戯画、風刺画」で紹介されている歌川国芳(1798~1861)の「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」でしょう。よく顔を見ると、多くの人が組み合わさってできていることがわかります。「奇想の絵師」と言われる国芳らしい作品です。「図録」を読むと、背中の「丸に三つ引き」の紋から、鎌倉時代の武将、小林朝比奈(朝比奈義秀)とわかるそうで、江戸時代の読本などの世界では、「いい人」(善人)として描かれていたようです。(下の図は歌川国芳《みかけハこハゐがとんだいゝ人だ》弘化4年(1847)頃、大判錦絵、町田市立国際版画美術館蔵)

とはいえ、国芳が人間の組み合わせという面白さだけで、この絵を描いたとは思えません。制作された 弘化4年(1847年)は、「天保の改革」(1841~43)の直後で、浮世絵などが「風俗を乱す」として発禁になった名残があったはずです。となると、この絵の詞書にある「大勢の人が寄って集って、いい人をこしらえた」という文章は、天保の改革など政府の施策を逆説的な表現で嘲笑しているのかもしれません。

 

お上のやる政策だからご立派ですよ、でも、本当に立派な政策なら庶民の暮らしを理解したものになるはずですよね、なんて意味が込められているのかも、なんて邪推をしてしまいます。

 

絵師たちの「遊び心」の真骨頂だと思わせるのが第3章「鯰絵、麻疹絵」のコーナーです。安政2年(1855年)の江戸大地震で、江戸を中心に多くの家屋が倒壊、火災も発生しました。絵師たちは、被災の様子を浮世絵に残すとともに、地震は鯰(なまず)のせいだとして、鯰を成敗する絵をたくさん描いたようで、このコーナーにも展示されています。

 

「雨にハ困ります 野じゆく しばらくのそとね」は、「図録」の解説によると、歌舞伎「暫」で鎌倉権五郎景政が要石で悪役を退治する場面を借りて、景政が鯰を抑え込んでいる様子が描かれています。歌舞伎では、悪人にへつらい鯰坊主と呼ばれる鹿島入道が登場するそうで、それを鯰に見立てたわけです。(下の図は《雨にハ困ります 野じゆく しばらくのそとね》安政2年(1855)、横大判錦絵、町田市立国際版画美術館蔵)

この絵は、後期(10月15日~11月23日)展示なので、私は見ることができませんでしたが、「図録」に掲載されている絵を見ると、入道のしっぽが鯰の尾になっていて面白い構図です。三代歌川豊国(1786~1865、改名前は歌川国貞)が震災直後に描き、詞書は仮名垣魯文(1829~1894)が書いたと伝えられています。

 

地震の災禍はひどいものですが、鯰が地震を起こすという民間信仰に乗って、天災を笑い飛ばしてしまおうという「遊び心」には、絵師の心意気を感じます。当時の世相を反映する浮世絵は、美術品ではなく瓦版のようなジャーナリズムとして安価で売られ、回し読みされていたでしょうから、被災した庶民も、鯰絵を見ながら留飲を下げていたのではないでしょうか。

 

うきよ絵は、「憂き世」を「浮世」に見せる絵師たちの「遊び心」が込められているようです。遊び心といっても、権力者たちは、遊び心を嫌いますから、絵師たちは緊張しながら浮世絵を制作していたのだと思います。命がけの「遊び心」だったかもしれません。

 

広重や国芳がいまの「憂き世」を見たら、どんな「浮世絵」を描くのか、ホワイトハウスから出入り禁止になりそうな絵を想像するのは楽しいですね。


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