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ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線-余談編

2021.06.07 Mon

松島の測量に活躍した天城艦
(ソース https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_corvette_Amagi.jpg)

 

(榎本武揚と国利民福 安全保障-後編-3-3-1-余談)

・ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線-余談編

 

 

 海軍省報告書に登場する榎本武揚海軍卿の箇所を閲覧していましたら、いくつかの興味を引く資料がありました。

 

 

・天城艦から榎本海軍卿への報告・・・鬱陵島(我が国にて松島と称する処)

 

 

 明治13年2月25日に水路局長は川村純義海軍卿時代に三浦少尉以下計三名を朝鮮へ向かう天城艦で測量の為、員外乗組をさせて欲しいと上申しました。2月28日から新しく海軍卿となった榎本は、3月24日付で承認しました。

引用元
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09113988300、秘入302 三浦少尉外2名天城艦朝鮮回航中員外乗組の義水路局上申(防衛省防衛研究所)
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09102570400、秘出138 三浦少尉外2名天城艦乗組鎮守府達(防衛省防衛研究所)

 

 

 三浦少尉らは4月15,6日頃、横浜で天城艦に乗艦しました。そして、天城艦は、4月18日に横浜を出艦、4月30日に門司を出艦後、5月1日にスクリューの一枚を落としたため、一旦、松島に寄り、5月2日に釜山に着艦しています。松島の測量が行われたのは6月5日でした。

 

図1 明治13年1月から6月までの天城艦の航泊表の一部

 

 6月22日付で榎本海軍卿に「天城艦乗組三浦少尉外2名より報告書水路局届」が水路局長から通知されました。三浦少尉は6月5日に松島での測量について、「鬱陵島(我が国にて松島と称する処)に近づくと港のような停泊地は無いが、島の東側に小さい湾があったので、端艇(ボート)を降ろし、岸に達しました」と書きました。岸に達したということは、上陸して測量をしたのだろうと考えられます。

 

『水第三百二十五号ノ二 三浦少尉書等ヨリノ報知書写相添御届 現今朝鮮海ヘ回航相成居候天城艦之員外乗組三浦少尉外二名ヨリ別紙之通リ報知越シ候条此段御届仕候也 明治十三年六月二十二日 水路局長 海軍大佐柳楢悦 海軍卿榎本武揚殿 当天城艦之義去月十八日元山津ヘ向ケ釜山港発艦仕同二十日元山律ニ着本月二日ニ至リ同所発艦之処午後強風高浪ニ付幸ヒ探港ノ為メ江原道地方通川郡長箭洞ニ投錨仕候此地ハ良港ニハ非サレトモ帆船ノ一時寄泊ニ宜シク候同三日天候昨日ニ異ナラス早朝ヨリ錨地ノ近傍ヨリ湾口ニ至ルマテ岸線及水深ノ略測ヲ施シ申候(略測図ハ後信ニテ送呈可仕候)同四日長箭洞出艦五日朝ヨリ欝霊島(我国ニテ松島ト称スル処)近傍ニ回航仕候該島ハ港口泊地等ナク唯タ東辺ニ・・・』

 

図2.三浦少尉らの水路局への報告書

 

引用
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09114129500、外入313 天城艦乗組三浦少尉外2名より報告書水路局届(防衛省防衛研究所)

 

 三浦少尉らは11月8日に帰京届を水路局長に提出し、榎本海軍卿にも伝達されました。

 

引用
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09103006400、履入1696 三浦少尉外1名帰京の件水路局届(防衛省防衛研究所)

 

 ここで注目すべきは、三浦少尉の現地からの報告書では、国内では松島と呼ばれている鬱陵島と書いている点です。これ以前の明治11年の天城艦による朝鮮沿岸の測量時は竹島と記載されていました。その後、いつからか分かりませんが、その竹島は松島と海軍では称され、その島は鬱陵島であると海軍は認識し始めたことになります。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09113084500、外出953 天城艦朝鮮全羅忠清両道測量略図取調の件に付水路局へ下付(2)(防衛省防衛研究所)

 

図3 明治11年の天城艦の航泊表の一部

 

図4 松島に関わる箇所を拡大した図

 

 上記の明治11年の天城艦の航泊表では、6月18日から7月4日の間のいつの日かは判明しませんが、竹島で測量をしていたことが分かります。航泊表の記事を拡大してみると、『竹島ノ真偽ヲ探リ松島ヲ一廻ス』と書かれています。

田村清三郎『島根県竹島の新研究「復刻版」』によると、ペリー提督の『日本遠征記』(1856)の第一巻挿入された日本地図は、はシーボルトの日本地図をベースに作成されたが、1854年のロシア軍艦の測定結果により、アルゴノート島は実在しないとペリー提督の地図には注記が入れられ、ダジュレー島(松島)だけが描かれていた。しかし、その後も西洋から発行される地図にはシーボルトの日本地図をもとにしてアルゴノート島とダジュレー島が描かれていた。

 

『単行書・竹島版図所属考』*1では、この測量結果が海軍水路局の水路雑誌に掲載*2されましたが、その報告の中では「松島」を測量したと書かれています。西洋の地図上の竹島(アルゴノート島)は存在しないことを確認し、しかも、松島も竹島も同じ島だと理解していたのでしょう。

*1 ここでの竹島は鬱陵島を指します
*2 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017259400、単行書・竹島版図所属考(国立公文書館)

 

 鬱陵島の島名が日本では竹島だったのに、国内でいろいろな名前で呼ぶようになる混乱を作った原因は、突如やってきた西洋人が言った数種類のこと(情報)を日本人がうのみにして信じたためです。自分の目で確かめてやろう、自分で考えてみようという榎本の精神があれば、こういう情報の混乱は起きなかったでしょう。現代でいう情報リテラシーにかけた時期だったと言えます。

 

 かくして明治13年9月13日に水路局長から三浦少尉の報告をもって、日本名―松島(松島の脇に岩稜の竹嶼)、朝鮮名―鬱陵島として水路報告第33号が発行され、決着しました。田辺太一が、武藤平学や瀬脇寿人らの明治9年、10年の願書などに対し、松島は朝鮮領の鬱陵島である、と記した付け札が貢献したのか否かが分からず残念です。

 

図5 神戸沖に停泊していると推定される天城、1898年以降
(ソース https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_corvette_Amagi.jpg)

 

 

・榎本海軍卿の発信文章にラムチャンドラやペルシャ人が登場する

 

 

 海軍省報告書中には、軍艦比叡艦にペルシャへ日本から初めての外交団、吉田正春一行らを便乗人として乗船させる手続きや、出航後の比叡艦との暗号通信について外務省とのやりとりなどあり興味深いものですが、榎本の発信文書中には『「ラムチャンダラ」氏』とペルシャの外務大臣や駐露ペルシャ公使のことが記載されていました。

 

 以下の文章で、『シベリア日記』に榎本が、明治11年7月26日のペテルブルクの汽車の駅に榎本を見送りに来た人たちの一人を「ペルシャ」と書いた人物は、駐露ペルシャ公使だろうということが分かりました。また、ラムチャンダラをペルシャに派遣し、吉田正春らを補佐させようとしたのは榎本だったであろうということも分かりました。

 

件名:『吉⽥正春波斯渡航⼀件書類 明治⼗三年/分割1』

概要:『受坤第三三号明治十三年三月二十三日外務卿井上馨殿大蔵卿佐野常民波斯国試貿易之義ニ付榎本海軍卿ヨリ別紙之通照会有之右見込ミ次第至極同意致候間太政官ヘモ夫々上申施行可致ト存候就テハ該国之義未タ本邦定約外之国ニ有之候旨今般渡航之商売保護方等可然御取計有之度候此段及御通報候也明治十三年三月二十三日波斯国ニ本坊商人試貿易トシテ派遣之案波斯国民ハ一般ニ紅緑茶二種ヲ飲用シ而シテ其茶ハ美魯両国商人ノ手ニテ輸入スル所ニ係レリ設シ本邦商人ノ手ニテ直ニ波斯湾ニアル開港場エ輸送スルトキハ我国産ヲ繁殖セシムル基トナルヘキ而已ナラス貿易上ニ多少ノ利益アルヘキニヨリ拙官義前年前年比特堡府ニ於テ波斯国外務卿并ニ駐魯波斯公使等ト談判ニ及ヒ通商条約取結前ニ先ツ我商人数名ヲ彼国ニ派遣シ国内ヲ旅行シテ商況ヲ実験セシメン事ヲ約シ・・・』

 

(主要箇所意訳)

「外務卿 井上薫殿 大蔵卿 佐野常民殿

 ペルシャ人は米国人やロシア人の商人から紅茶や緑茶を輸入しているので、日本の商人も直接ペルシャへ輸出し貿易をすることでいくらかでも利益が得られるのではと考え、榎本がペテルブルクにいたとき、ペルシャの外務大臣と駐露ペルシャ公使と外交交渉をし、通商条約締結に先立ち、商人数名をペルシャに派遣し、ペルシャ国内を旅行し、商況を実見することを約束しました。すでに、商人などの人選と持参する商品などを選びました。それらにかかる費用を概算しましたので、費用を用意して欲しい。」

 

 その概算費用の内訳の中に、ラムチャンダラの交通費や諸経費が計上されていました。ラムチャンダラはペテルブルクからペルシャへ直行することになっていました。

 

図6 ペルシャへ使節団を送る費用の内訳の一部

 

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B16080699300、吉田正春波斯渡航一件書類 明治十三年/分割1(6-1-6-4)(外務省外交史料館)

 

 

・磐城艦の油谷湾での謎の長期碇泊、トラブル続き

 

 

 磐城艦の航泊表では、明治14年2月22日から3月18日までの間、三週間以上も山口県の日本海側に面した油谷湾(ゆや)に天候悪化を理由に停泊していました。めったに見ない事です。天候が組織的に記録され始めるのは、明治14年の後半からです。当然、山口気象台はまだありません。この時の気象がどうだったのかは、山口県日本海側の沿岸部や島根県、福岡県玄界(海)灘側の古文書を調べなければ確認できません。

 

 明治13年11月に磐城艦の坪井艦長は、艦に便乗させて欲しいと官民とも直接艦長に申し込みに来ますが、許可していいものでしょうか、と中牟田海軍中将、榎本海軍卿に文書で問い合わせています。便乗希望者の氏名は不明ですし、坪井艦長への回答も不明です。

 

 そして、翌年明治14年1月21日に横浜を出艦し、門司で松島へ行く便乗人を乗せ、油谷湾で三週間以上停泊し、3月18日に出艦し、3月19日に松島で投錨し、便乗人を降ろしました。艦はその後、元山津に向かいました。

 

 坪井艦長が言う便乗人を降ろす場所は松島だけでなく、元山津、釜山なども含まれていました。坪井艦長も軍艦が行くなら乗せて行ってくれと頼む理由の一つが、長崎―釜山の間は、月一度、三菱汽船会社(郵便汽船三菱会社)の船が往来するだけだからとも説明していました。

 

 磐城艦は横浜を出艦した後、神戸港で私船と衝突*1したり、朝鮮半島東岸を航海している間に寒暖計を海中に落として無くしたり*2、艦尾の端船を流失させるなど*3、トラブルが続きました。これらのことが原因かどうかは不明ですが、坪井艦長に帰京の命令が出ました。磐城艦が4月15日から5月10日までの間、門司に停泊していた時期のことです。

*1JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09103186800、往⼊348 鎮守府届 磐城艦破損所修理の件(防衛省防衛研究
所)
*2JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09103289100、往⼊1096 鎮守府副申 磐城艦⽤寒暖計落失の件(防衛省防衛研究所)

*3JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09103293500、往⼊1114 鎮守府届 磐城艦艦尾の端船流失の件(防衛省防衛研究所)

 

・密貿易の交易場になっていた―鬱陵島

(本項は海軍省報告書にあった内容ではありません)

 

 鬱陵島は、加賀の豪商、銭谷五兵衛が密貿易に利用した島の一つでした。

 

 銭谷五兵衛(1774-1852)は、海外密貿易で非常に大きなビジネスをしていました。鎖国時代の中での海外の活動範囲は非常に広大だったとも言われています。銭谷五兵衛は、日本近海の無人島を活用して日本人商人の共通の海外貿易の拠点にしようと考えていました。

 

 しかし、銭谷五兵衛は金沢で請け負った工事が紛糾した挙句、80歳で獄死しました。もう少し生きていれば、日本は開国して、銭谷五兵衛の活動は絶好調になるはずでした。

 

 この出来事を『勝海舟は生前、「銭五(ぜにご)(銭屋五兵衛)のやるようなことは幕府は大目にみており、みなわかっていた。それを加賀藩の方で下手をして、勝手に大騒ぎをやってとうとう殺してしまった」と語っていたという。』

 

以下の資料を参照、引用しました。
1.田村清三郎『島根県竹島の新研究[復刻版]』島根県総務部総務課、平成8年
2.関厚夫『次世代への名言 幕末維新青春伝(17)』産経新聞、2013
https://www.sankei.com/article/20130611-BSMN5RCRXZKYJDZGEH6WVLXW2E/

 

 

 鬱陵島で密貿易をしていた商人は、銭谷五兵衛だけではありません。田村清三郎『島根県竹島の新研究[復刻版]』によると、『浜田浦の会津屋八右衛門いわゆる無宿八右衛門の竹島密貿易事件については、なお一段の研究を要するところであるが』と前置きして、『浜田松原浦の廻船問屋会津屋清助は、航海中漂流してスマトラ・ルソン・カンボジャ・高砂の各地を経由して』帰国したと伝えられ、「その知識を利用して、清助の子八右衛門は、隠岐国松島(現在の竹島)に渡ることを名目として、竹島(蔚陵島、幕末以降の日本名は松島)に渡海し、さらに南方地方にも赴いて密貿易に従事し、巨利を博したが、幕府大目付の探知するところとなり天保七年(1836)六月大坂町奉行に捕らえられ、十二月に死罪に処せられ」ました。大坂にもいた関係者も死罪でした。

 

 鬱陵島に隠岐の島経由で渡り、外国との密貿易の交易場に利用しました。金沢から島根県、山口県、さらに大坂商人も含め、西日本の日本海側から密貿易、通漁、伐木などの対象になりました。海を囲んだ地域ではどこでもあることなのでしょう。

 

 浅井壮一郎『戦意の研究 明治維新 参勤交代に始まる近代化』(三省堂/創英社、令和3年)によれば、長州、薩摩は交易、密貿易で膨大な利益をあげ、特に薩摩は徳川を越える財力を持ちました。坂本龍馬が海に大きな希望と野心を抱いた理由が分かります。

以上。

 

 

 海軍省報告書は、以下の資料を本文全体で参照、引用しました。

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062089000、記録材料・海軍省報告書第一(国立公文書館)」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062089200、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062091300、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062091500、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062091700、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062091900、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062092100、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)」

 


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