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日本については縄文から弥生への移行を臭わす、ジャレド・ダイアモンド

2018.09.23 Sun
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日本については縄文から弥生への移行を臭わす、ジャレド・ダイアモンド
博士の記述: 狩猟採集時代から農耕時代へ

平成30年9月
仲津 真治

1 今、読んでいる「ジャレド・ダイアモンド博士」の本で、ひとつ興味をそそる
のは、狩猟採集時代から農耕時代への移行の辺りです。 研究者によれば、
この変化が、農地・土地への人類の執着を生み始め、生産の増加とともに、人口
の増加をもたらし、土地を巡る人々の争いを始源させ、その規模を大きくし、遂
に紛争・戦争の淵源になったと指摘しています。

この移行は、最初、先史時代の約一万二千年前、起きたと見られています。
ところは、今日の中東地域の一角であるメソポタミアです。 それは最古の農耕
遺跡と言われます。 往時の多くの出土品などがそれを示している由です。 そ
の頃、人類が棲んでいた世界各地の中で、様々な地理的条件や気象条件、植生、
土地の肥沃度などが揃ったのがメソポタミア地方でした。

2  それまで、寒冷を凌ぎつつ、通常、生存のため獲物や食糧を求め、探し回って
来た人類の生き方は、既述の通り、狩猟採集と呼ばれています。そして、ちょう
ど約一万二千年前頃に、それらが不足し始めたと見られています。 獲物などの
深刻な減少です。

人々は焦ったのでしょう。飢饉などに襲われ、餓死、凍死などが続発したかも知
れません。斯くて、周囲に在る植生を何とかして、命を繋ごうとします。 長年
月の後、何かの栽培が手懸けられました。 そして、或る程度の実りを獲て、栽
培らしきものが始まります。 その折り、所謂「イネ科」の植物が注視されまし
た。 所謂、雑草の大半を占め、その中に、大麦、小麦などの穀類として発展し
ていく種類が含まれていました。 斯くて、それらは飢えた人々に食されたので
した。

3 ちょうどこの頃は、時代として地質学的に言うと、更新世の終わりと言われ
ている頃で、その頃の気候から比較的、栽培可能な野生種が多く登場、自然植生
からの実りが得られたと見られています。それらが、前述した通り、大麦、小麦
などの穀類という作物に発展していきました。つまり、哺乳類などの獲物の深刻
な減少の一方で、折良く、植物の栽培の道が開けて来たのです。

4 加うるに、栽培、加工、刈り取り、貯蔵などの食料生産の諸技術、ノウハウ
が次第に発達し、蓄積されて行きます。それらは、諸施設、諸道具などの
創意、工夫、発明などに繋がりました。 今日でも、多くの遺構、貯蔵穴、遺跡、
遺物などとなって残っている由です。

5  斯くて、前述した如く、農生産と人口の増大とが招来されました。 その効果
は各年では僅かでも、やがて猛烈な増大振りが生起されます。 所謂幾何級数的
効果です。 それは、狩猟採集時代に対比すれば画期的なものです。
この状況を、著者は自己触媒の過程や作用と形容しています。
実に、巧みな把握ですね。

6 この人口と生産の著しい増大は、数の上で、農耕民が狩猟採集民を
圧倒するととに、文化・文明の面で、質、量ともに凌ぐ状態をもたらしました。

つまり、農耕民側が、狩猟採集民の集団を追い払い、殺戮することを可能ならし
めた様です。 人口が増大・稠密化した農耕民側に都市や王国を誕生させ、
余力を与え、職業軍人まで有せ占め、その優位をもたらし、さらなる拡大や、巨
大国、中には、帝国まで形成させるようになったと見られます。

7   著者の歴史観、科学的視点などを集大成すると、メソポタミアは、
こうした国、乃至文明の始原となり、同じ地中海気候に覆われた、北アフリカや
ヨーロッパなどに、数多の歴史的変遷を経て、巨大文明圏を築き、現代に
及んでいます。

もう一つ、メソポタミアの楔形文字とは異なる、漢字という字源をもつ、チャイ
ナの文化・文明圏があります。 その人々は、同じイネ科に属しつつも、麦類と
は異なる「コメ」と言う作物の栽培に成功、紀元前220頃に、ヨーロッパの対極の
東アジアに統一国家を形成するに至り、その後幾多の変遷を経るも、現代に至っ
ています。

8  その比較的近いところにですが海洋を隔てた日本の地があります。

約一万四千年前には、其処に、狩猟採集を主とした縄文という文化圏が
成立しました。 何と、それは農耕無しに定住型の生活圏を形成した由、
日本列島の自然環境の豊かさを物語っています。 この縄文時代が約一万年続く
間、優れた土器文化を生み出します。 世界最古の土器、即ち縄文土器です。

この土器に代表される縄文文化が続く間、農耕文化の到来はありませんでした。
日本列島は、湿潤な気象条件からいっても、農耕適地でしたが良く、保全されて、
次の時代を待ったのです。 つまり、弥生の農耕文化の到来です。 所謂「水田
耕作」ですね。

それについて、「日本列島の一部にやって来た」との趣旨を、著者は書いていま
す。それは、地理的距離のため、稲作文化の普及と拡大に時間を要したことの
反映でしょう。 それは、縄文人と弥生人の融合や定着に、年月が懸かったこと
を物語っているのかも知れませんね。

斯くて、米文化の到来と適地の活用開始で、此の地の歴史は大きく展開します。


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