榎本武揚と国利民福 最終回-前編 −グレートゲームの終焉と榎本武揚の願い−
図1 榎本農商務大臣の更迭を報ずる新聞記事
−榎本農相辭任事情−
『〔[明治30年]三・三一、東京日日〕 榎本氏今回の辭職[じしょく]は、或は首相其他よりの勸告に因るか否を探ぐるに、全く子一己の決心に出で、其理由は、事の是非を問はず礦毒事件其他の爲に農商務省は議院に於ける攻撃の 燒點[焼点]となり、其極聖聽[せいちょう]を煩し奉りたるは恐懼[きょうく]の至に堪へずといふに外ならずして、却て首相は一應留職を勧めたる程なりといふ。』
榎本武揚と国利民福 最終回-前編
−グレートゲームの終焉と榎本武揚の願い−
・政界からの引退
榎本(61歳)が明治30年3月に農商務大臣を辞職して約半年後、10月29日午前十時付で、黒田清隆(56歳)は松方正義首相(62歳)に、日清戦争後の影響が列強各国へ波及し、政府は国際情勢の変動や清朝の復讐戦に対し注視を必要とし、勢力関係が変わった満州に、ロシアの南侵にも注意が必要となっている、『千思満慮之末、一片之哀情仕候』、もし、内閣大臣に薩人が多すぎるなら外務大臣に榎本が適任と思う、他には青木[周蔵、長州]、河瀬[真孝、長州]、田中[不二麿、尾張]らもよいのではないかと、黒田が考える外務大臣候補を書き記し、書簡*を送りました。
*松方峰雄、他編集『松方正義関係文書 第七巻』大東文化大学・東洋研究所、昭61、p.347
かつて、伊藤博文らは、榎本海軍卿を追い出そうと暴れる海軍の薩摩閥に手が付けられず、伊藤博文と井上馨が、榎本に新たなポストを用意しても大隈重信が横取りしたため、明治14年4月7日に榎本は更迭されるに至り、新たな辞令(駐仏公使)を受けました。しかし榎本は、この人事に抵抗の意思を示し、辞令を拒絶し、引き込もってしまいました。伊藤や井上の斡旋で翌月、一等官として宮内省へ復帰し、翌15年5月7日に皇居造営事務副総裁(実質上のトップ)に就任しました。すると、6月にはすでに榎本を清国へ送り込む人事*が動いていました。7月23日に朝鮮国で壬午軍乱が起きると、黒田は、この混乱に対処するために、真っ先に清国へ送るべき人物は榎本だと主張し、榎本に8月12日付け、駐清特命全権公使への転任命令がでました。元々、黒田が熱心に榎本を海外へ送り出そうとしていたのではないかと疑われます。
黒田は、榎本を軍事から遠ざけたかったのか、それとも、国際政治の世界を理解し、方針を打ち出す能力がある人物は、榎本唯一人という確信があったのか、黒田は日本の国際環境が混沌とし、緊迫すると、榎本を国際政治の世界へ送り出そうとしました。松方の外務大臣選考結果は、榎本では無く、榎本(62歳)より一回り若い薩人の西徳次郎(50歳)でした。松方が黒田の顔をつぶさない人事をしたとするなら、松方が榎本に外務大臣就任の話を相談し、榎本が西を推薦したので、西が外務大臣に就任したと考えられます。榎本は、自身の役割は終わり、日本の外交や国際政治を次の世代に任せる時が来たと自覚していたのでした。
【榎本を支えた安藤太郎】
榎本艦隊脱走時に回天の乗組員として宮古湾でのアボルダージュ作戦(海戦)に参加し、負傷した安藤太郎(1846-1924)は、後に明治7年、香港を皮切りに明治新政府の外交官として働き、明治19年にハワイ総領事に就任し、22年11月に帰国しました。
明治19年2月、日本人移民に酒と博打で乱れた生活をする者が多く、内外人から多数苦情が領事に寄せられ、領事が対応に苦慮していたので、移民の取り締まりのため安藤は総領事としてハワイに赴任することになりました。安藤は、その実情を目の当たりにして、暗然たる思いになり、海外で仕事をする日本人の品位の改良の必要を実感しました。翌明治20年9月に米国本土からハワイへ日本人移民の悪評を視察しに派遣されたメソジスト派の伝道師から安藤は洗礼を受け、キリスト教の信徒になりました。明治20年12月11日、鯨飲の安藤は妻(荒井郁之助の妹、文子)の決断*¹により、禁酒を決意しました。21年4月7日、「在ハワイ日本人禁酒会」*²が結成され、安藤太郎が会長になりました。
安藤は、22年10月に帰国し、翌23年3月に発足した「東京禁酒会」の会長に就任し、禁酒運動を全国に広めようとしました。さらに、安藤は青山学院の創立、発展に寄与した津田仙*³とともに青山学院の経営に商議員や理事として活動*⁴しました。
*¹「樽割り美談の真相」(安藤文子夫人談)『安藤太郎文集』、pp.221-224
*²小塩完次『禁酒の使徒 安藤太郎伝』https://kinshu.or.jp/topic-ando-tarou-den-01.html
*³氣賀健生『青山学院の歴史を支えた人々』青山学院、2014、pp.27-35
『津田梅子の父、津田仙と青山学院』https://aogakuplus.jp/story/20190427_03/
*⁴小林和幸『「安藤太郎関係文書」「安藤太郎日記」に見る青山学院』青山学院資料センターだより 20号、2019.7、p.51
参考:安藤太郎 [著]『安藤太郎文集』,日本國民禁酒同盟,1929.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1881391 (参照 2024-02-10)、pp.7-8、根本正「序」によると、安藤がハワイ官約移民を創設したとしている。
榎本は明治24年3月に徳川育英黌*農業科(東京農業大学の前身)を設立し、黌主に就任し、また、5月には大津事件の尻拭いのため、外務大臣に就任し、そこで移民課を新設しました。8月に安藤を外務省通商局長兼移民課長として起用しました。翌明治25年8月に第一次松方内閣(1891.5-1892.5)の総辞職により榎本が外務大臣を辞任すると、安藤は依願免官し、移民課は消えましたが、その翌年の明治26年3月に榎本は殖民協会を創立し、榎本が会頭に、安藤が幹事に就任しました。明治27年1月に第二次伊藤内閣の農商務大臣に榎本が就任すると、榎本は安藤を農商務省商工局長に迎えました。明治30年3月、榎本(61歳)が農商務大臣を辞職すると、翌月、安藤(51歳)は退官しました。安藤は榎本の同志として榎本の仕事を支え続けました。
*いくえいこう
明治27年9月発刊の「殖民協会報告」(17)に本所京三郎著『大槻幸之介君起業談』が掲載され、第一回官約移民団(明治18年)の一人、宮城県陸前国柴田郡の豪族出身の「大槻幸之介」(1852-1931)の経歴と人物が詳しく紹介されました。安藤は榎本に宛てた10月19日付け書簡*の中で、大槻を『此ノ流ノ人物コソ吾人ガ将来二海外ニ於テ作リ出サントスル新日本人ノ模範』として紹介しました。大槻は、移民したハワイで謹厳実直に仕事に励み、現地の資本家から信頼を得て、後援を受け、起業し、事業を手広く拡大させました。また、殖民協会の会員となり、メキシコ殖民に参加しようと意気込んでいると安藤は榎本に伝えました。
(下線は筆者挿入)
*国会図書館、榎本武揚関係文書・名士書簡、36安藤太郎01
中込眞澄『ハワイを拓いた日本人』幻冬舎メディアコンサルティング、2016、pp.84-85によると、戊辰戦争後、宮城県から気候の厳しい北海道へ生計を立てるため、主従ともに集団移住を繰り返し、大槻が生まれた地域及び周辺からも北海道への移住が多い地域だったので、大槻は地元の人々のために温暖なハワイに新天地を建設しようとしました。
1915年(大正4年)、安藤は、妻、文子の他界後、自宅を日本メソジスト銀座教会安藤記念講義所として寄贈し、1918年に安藤記念教会*として設立されました。安藤の禁酒運動は、海外で活動しようとする日本人の品性改良運動でした。日本酒を夕飯にしている榎本と安藤は酒に関しては正反対の生活になりましたが、「吾人」(われら)と呼び合う同志でした。安藤の役人引退は榎本の政界引退を裏付けています。
*『教会の沿革:日本キリスト教団 安藤記念教会』http://ando-kinen.com/index.php?教会の沿革
榎本は大鳥圭介と共にジョン万次郎から米語を学び、安藤と大鳥は共に横浜で米国人の宣教師から米語を学びました。榎本、安藤、大鳥は青年時代に米語の教師を通してアメリカ建国史と出会っていました。榎本達は、失業者救済のために箱館へ向かい、箱館で「共和国」を建国したと言われるようになりました。当時の日本の状況からは興味深い話ですが、国家体制に注目が集まり、かえって榎本達の行為への理解は狭まりました。青年時代に米国の建国史からエンタープライズ精神を啓発された榎本達は、最新の専門知識で重武装を済ませると、明治新政府下での閉塞感を打破するため、北辺の大地、その先の北海を目指し、フロンティア・スピリットを燃え上がらせました。蝦夷嶋に自由の新天地を夢見ていたのです。
参考文献
- 小林和幸『「安藤太郎関係文書」「安藤太郎日記」に見る青山学院』青山学院資料センターだより 20号、7
- 青山学院大学・沿革 https://www.aoyama.ac.jp/outline/history/
- 小塩完次『禁酒の使徒 安藤太郎伝』一般財団法人、(原版、1964) https://kinshu.or.jp/topic-ando-tarou-den-01.html
- 安藤太郎 [著]『安藤太郎文集』,日本國民禁酒同盟,1929.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1881391 (参照 2024-02-08)
【工業社会を目指す−機械工業、自動車工業】
明治25年頃、榎本はメキシコへ殖民調査団を派遣しました。一方、榎本は日本社会に次に到来する機械工業社会に必要な鉄鋼事業を自分が実現させてみせるとして、企画会議を開催していました。
明治27、8年の日清戦争前後に、官営造船所や払い下げられた造船所、民間の造船所などで、蒸気機関や発電機などの国産化に着手しましたが、その当時は、設計通りには製作できず、当然、輸入品の品質には程遠く、国内でも競争力が無く、機械工業社会へ向けた道は苦難の連続でした。手島精一の東京高等工業学校では、機械の輸入と同時に「機械」に精通した外国人の熟練技術者を雇用し、教育を授けることにしました。(鈴木敦『4章機械技術:産業技術史』山川出版、2001)
明治27年1月榎本(59歳)は、第二次松方内閣の農商務大臣に就任すると、農商務省の実務は金子堅太郎次官に任せ、製鐵所建設のために作業を開始しました。翌明治28年12月の第九回帝国議会で『製鐵所設立意見』を表明し、「製鐵所建設建議」が可決(協賛)されました。人は榎本を「鍛冶屋大臣」と呼びました。
同じ頃の明治28年にフランスで”automobile”という言葉が作られ、同年11月に日本の雑誌がパリ・ボルドー間往復レースの紹介を通して初めて国内に自動車を紹介し、榎本がメキシコに殖民団を送り出した翌年の明治31年(1898年)に、日本に初めてフランス製ガソリン車が輸入され、続いて米国製電気自動車、翌年、米国製蒸気自動車が輸入されました。
日露戦争後の明治38年では国内でガソリン発動機の特許を取得し、自動車の製造販売を開始した人物が登場し、さらにはオートバイの分野で同様の特許を取得して販売した人物が、明治39年にトラックの特許を取得し、運輸会社に製造権利を販売した人物が登場しました。自動車の製造のため、ボディー、シャーシ、タイヤなど、幅広い分野で技術の国産化のため開発が始まりました。機械製造業の始まりでした。時代は黒船から無軌道自己推進式の自動車(以後、自動車)の時代へ移り始め、再び、日本人の抑えきれない好奇心とものづくり熱で、パイオニアたちの体から熱気や蒸気がほとばしり始めました。
出典 佐々木烈(ささき・いさお)『日本自動車史 写真・史料集』三樹書房、2012、p.Ⅲ
日本自動車工業会『日本自動車産業史』凸版印刷、昭和63年、pp.1-4
(注)”automobile”については以下のURLを参照。
https://www.etymonline.com/jp/word/automobile
【農商務大臣を辞職する】
明治27年1月に榎本が農商務大臣に就任以降、農政は次のようになりました。
『明治28年(1895)以降の農政は、法律の制定、制度の拡充を通じて推進をみているが、それは蚕糸業行政に於いても同様であった。まず法律の面からみるならば以下のようである。明治20年代前半からの生糸直輸出業関係者の要望、および明治20年代後半の全国実業団体運動の要望をうけるかたちで、明治28年(1895)6月、生糸検査所法(法律第32号)が公布されている。その結果、明治29年(1896)7月、神戸に於いて、8月、横浜に於いて、生糸検査所の業務が本格化を呈している。ついで明治30年(1897)3月、蚕種検査法(法律第10号)が公布されており、初めて全国画一の基準の下、卵のみならず、繭、蛾に至るまで検査が及ぶようになっている。』
出典 富澤一弘『生糸直輸出奨励法の研究-星野長太郎と同法制定運動の展-』補論(上)高崎経済大学論集第49巻第2号、2006 pp.59-60
榎本農商務大臣の功績の一つは、生糸など輸出品の検査システムを構築し、商品の品質を一定基準以上に統一を図ったことでした。Japan Brand実現に向けた有効な制度作りに尽力しました。
明治29年10月から始まった農商工高等会議では、資本投下を伴う移民(殖民)事業を否定されることにもなりましたが、翌明治30年3月に榎本メキシコ殖民団は出発しました。南洋群島では横尾東作らが活動していました。また、工場での労働者保護へ向け、農商務省や文部省の具体的な作業が始まることになりました。
しかし、失敗もありました。明治30年3月26日、生糸と茶の直輸出に関する法案(生絲直輸出奨励法案、重要輸出品同業組合法案、製茶販路拡張費補助等について)が帝国第十議会で成立しました。同月28日の時事新報で福沢諭吉は農商務省の当局者の更迭を要求し、さらに農商務省を廃止すべきだと主張しました。この時の福沢の農商務省への大改革を要求する強烈な批判は、福沢が実業観で対立*する前田正名が榎本の後任として農商務大臣にならないようにするためのキャンペーンでもありました。この法案は、生糸の輸出業者に補助金を出し、直輸出を奨励するもので、条約に違反していたため、外国から報復措置として日本の生絲に特別重税をかけると警告されたことを理由に、翌年明治31年5月25日廃止になりました。
出典 長幸男『移植型大工業と在来産業』国連大学、pp7-10)
*福沢が経済的自由主義、前田は重商主義(管理経済)。
日清戦争勝利後、榎本と山縣有朋は伊藤首相に朝鮮国を永久中立国とするよう建言しましたが、却下されました。日清戦争の勝利の結果、清国の勢力圏は衰弱し、中国大陸での列強国間の勢力圏(鉄道利権)は一気に拡大しました。なにかきっかけがあればロシア軍がアムール川を越えて南侵することは、榎本には明治11年に既にお見通しでしたが、ロシアが南侵し支配する領域はその時の榎本の予測を超え、満州をより広範囲に支配することは秒読み段階に入りました。
日本の台湾出兵以降、榎本が李鴻章と良好な人間関係を築き維持しようとも、日清関係を根本的に修復することは無理な状態でした。この状況に対し、日本の政治家や外交官たちはどう対処するのかは、榎本の次世代の外交関係者達に先送りになりました。
榎本の殖民による海外での世界商品の生産と貿易、殖民地間と本国を結ぶシーレーンの形成が困難を繰り返しながら継続し、国内での機械工業(資本財)、自動車工業(消費財)の萌芽の実感、一方、安全保障の綻びが広がるのを傍観するしかない状況をもって、榎本は政界からの引退を決意するに至りました。
明治30年(1897年)3月27日、勝海舟(1823-1899)が毎日新聞社を通して足尾鉱毒事件での農商務大臣の責任は重大だとした主張を表明すると、すかさず榎本農商務大臣(62歳)は松方正義首相に辞職を願い出ました。まるで勝海舟が榎本の辞職をお膳立てしたかのようでした。世間では榎本は足尾鉱毒事件への責任を取って辞職したと受け止められました。
榎本の松方首相へ宛てた辞職願には、明治時代に流行した言葉、「脳病」=ノイローゼを用い、「脳病により激職に絶えず」と辞職の理由が書かれていました。今度は一つ、ノイローゼで辞職と洒落てみるか、とでも思いついたのでしょうか。
榎本の農商務大臣時代に次官を務めた金子堅太郎(1853-1942)は、後に、榎本農商務大臣(60歳)は3月に「榎本大臣は就任以来余に命して計画せられる農商務省の経営事業も完成したる依り其職を辞せんとの内意を余に告けられた・・・」と書き記しています。金子も安藤と共に翌4月に辞職しました。
日本は一旦、戦争の準備期間に入りました。
図2 農商務省に改革を求める新聞記事
この新聞記事は、榎本辞職後に報じられた、農商務省批判記事です。薩長閥に負けず、榎本も仕事をやりやすくするためには、自身の人脈重視の人事をしていた可能性があるようです。
参考
−農相更迭−
『〔三・二九、官報號外〕敘任及辭令
○明治三十年三月二十九日。
外務大臣從二位勲一等伯爵 大隈重信
兼任農商務大臣
農商務大臣子爵 榎本武揚
依願免本官(三月二十九日內閣)
海軍中將正二位勲一等子爵 榎本武揚
特ニ前官ノ禮遇ヲ賜フ (三月二十九日宮内省)』
・政界引退後から対露開戦まで
【隕鉄から流星刀(星鉄刀)を制作】
加茂儀一『榎本武揚』では、明治30年、榎本は、61歳をもって政界から身を引いた後を、「晩年時代」と分類しました。榎本は民間団体で熱心に活動しました。明治30年以降のできごとは、榎本の成績表のようなものです。
農商務大臣時代の明治28年に手に入れた隕石を材料分析し、刀剣を作り、明治31年12月に論文『流星刀記事』*¹を執筆しました。この論文は榎本の死後、発見されました。クラーク博士(William Smith Clark、1826-1886)はドイツのゲッチンゲン大学に留学し、隕石に関する研究で博士号を取得*²しました。クラーク博士と榎本との具体的な接点はありませんが、隕石というキーワードで二人はつながっていました。
『この時代[商代(紀元前1700-1028年ごろ)中期や西周時代(紀元前1100-770年)初期]はまだ青銅器が圧倒的に優勢であり、鉄が限定的にしようされていたのは鉄が希少価値であったためである。さらに重要なことはこれらがすべて隕鉄(隕石)であり、人工の鉄ではなかったという点である。天からもたらされた素材は祭祀あるいは儀礼的行為を演出するうえでこのうえない存在であったに違いない。』(村上恭通『倭人と鉄の考古学』青木書店、1998、pp.13-14)
人は先ず、天から降ってきた隕石から鉄を取りだし*³、青銅と組みあせて刀剣を作りました。人工の鉄の中でも、鋼鉄を日本で製造できるように準備できたことで、榎本は古の天からやってきた神秘な金属を分析し、組成を知りました。計5振の星鉄刀を鍛造しました。天から訪れた材料を使って作られた刀剣(星鉄刀)であるが故に、皇太子(大正天皇)に献上しました。榎本は大きな知的満足と精神的満足が得られたことでしょう。
*¹加茂儀一『榎本武揚』中公文庫、昭63、pp.593-601
加茂儀一編『資料 榎本武揚』新人物往来社、昭44、pp.331-344
*²山本明夫『化学,隕石,北海道--榎本武揚とウイリアム・クラークを結ぶ糸』日本化学会(その1)2005年7号、(その2)2005年8号
*³新日本製鐵(株)広報企画室編『鉄の文化史 五千年の謎とロマンを追って』東洋経済新報社、昭59pp.6-8
参考、他
・認定特定非営利活動法人 クラーク博士別れの地・久蔵の里普及促進会 https://npo-clark.com/profile/
・2012年に榎本家から東京農業大学へ寄贈された流星刀を事前に研いだ故、小美濃清明氏は、鉄と違い組成がこぼれやすく磨き上げるのに苦労したと語っていた。
【興亜思想の終焉】
まだ江戸時代に、勝の提唱により始まった日清韓−三国提携論は、土台が勝のロマンでしたが、榎本が明治11年6月頃、サンクトペテルブルクでペルシャ王らと面会し、我らアジアの国を語り合ったことに始まる「興亜」思想は日清開戦で名実を失いました。
明治32年1月、勝海舟が薨去しました。75歳でした。
榎本は、明治32年10月に設立準備会がもたれた「支那調査会」*の常務委員に推挙されました。支那調査会の参加者には産業各界の団体が多数含まれ、支那調査会は支那全域(中国大陸)でのマーケット調査に取り組むことになりました。さらに、榎本らの興亜会後の亜細亜協会は、明治33年に「支那保全」即ち、日本の経済的利益を大陸全体から確保するために、列強に支那大陸を分割統治させず、一体性を維持させる事を目的とした「東亜同文会」に名目は対等合併、しかし、その実は吸収合併されました。
榎本は、日清戦争後、来るべき機械工業社会のための下準備を行い、政界から引退後は、興亜思想の実現を断念し、「支那を日本の『工業の大吐口』」とする側に協力することになりました。次に紹介する広瀬論文(博士論文)の結語で論じられているように、まさにこの時期が「興亜思想」が終焉した時期でした。榎本の政界引退とは、国際政治上の安全保障としての興亜、日清韓−三国提携論が破綻して終わったことも意味し、榎本が国際政治の安全保障の舞台から去ることになりました。対露開戦の準備期間に入ったこの時期、榎本は国際政治における安全保障の舞台からは去りましたが、陰で安全保障案や軍略については関係者と協力していったと考えられます。
広瀬玲子 [著]. 国粋主義者の国際認識と国家構想 : 福本日南を中心として, [広瀬玲子], [2002]. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004205222、p.259
『では彼らはこの「興亜」思想をどの時点まで主張し得たのか。筆者は一八九九年(明治三二)から一九〇〇年(明治三三)が転換点であったとかんがえる。この時期を境に日南・羯南・別天*¹は、ニュアンスこそ異なるが「支那保全論」に転ずるのである。それは清国への西欧列強の軍事侵略に対して批判をくわえ清国分割に反対するが、しかし経済侵略には日本も率先してくわわるべきだと言う主張であった。清国はもはや手を携える相手とは見なされなくなっていた。さらに日南に至っては日露戦争と前後して「ジャポノ・アングロ・ チャイナ帝国」の提案を行うというように、西欧帝国主義と同様な主張に帰結していったのである。「興亜」思想としての国粋主義の命脈は一九〇〇年(明治三三)を境に尽きたと言える。
この「興亜」思想の挫折の要因については、日清戦争の結果がもたらした列強のアジア侵略の激化、日本の帝国主義化と連動する国粋主義の帝国主義容認(帝国主義の経済的側面の容認)の姿勢があり、日南に則して言えば、外遊による思索と認識の変化、恵州起義*²の挫折に見る清国自力再生への断念が挙げられるが、その内容については本論で詳細に論じたのでここでは繰り返さない。』
*¹福本日南、陸羯南、長沢別天
・ふくもと・にちなん(1857-1921)
明治・大正期のジャーナリスト,史論家。本名は誠。福岡藩士の長男に生まれ,司法省法学校に学ぶが,1879年学校騒動で退学。自由民権論を唱え,北海道開拓に携わる。89年新聞《日本》の記者として筆をふるう一方,南方雄飛の志を抱きフィリピンに渡る。日清戦争後はフィリピン独立運動に参加し,中国問題に関心を寄せる。1905年玄洋社の機関紙《九州日報》社長となる。代議士も務めたが,《元禄快挙録》で史論家の地位を確立し,赤穂義士の研究にうちこんだ。第1次大戦に際し,国民精神の高揚を意図して,16年中央義士会を興した。執筆者:広瀬 玲子(コトバンク)
・くが・かつなん(1857-1907)
明治期の新聞記者。本名実。陸奥国弘前生れ。東奥義塾・宮城師範学校に学んだ後,上京し司法省法学校に入ったが中退。帰郷し青森新聞社の主筆。親戚の陸家の養子となる。1883年(明治16)上京し,太政官御用係・官報局編集課長を歴任。88年新聞「東京電報」を発刊。翌年新聞「日本」を創刊,社長兼主筆。政教社と提携して国民主義を主張し,言論界で指導的役割をはたした。
・ながさわ・べってん(1868-1899)
評論家。本名説(せつ)。別号,半眼子,坂東太郎など。常陸生まれ。1890年,三宅雪嶺主宰《江湖新聞》の記者を経て《日本人》《亜細亜》の編集にあたり,新詩論などを発表する。1892年渡米。スタンフォード大学で学びながら,日米関係論,文芸批評などを盛んに寄稿した。帰国後は日米関係論《ヤンキー》の刊行,《社会主義一斑》の連載,またミルトンの評伝《盲詩人》を刊行。1898年からは《東京朝日新聞》で活躍した。(コトバンク)
*²恵州蜂起(けいしゅうほうき)
恵州起義とも。中国,清末の1900年に孫文が興中会と革命諸勢力を結集して広東省恵州での武装蜂起を計画した事件。フィリピン・日本からの武器支援を期待して準備されたが,支援の約束が果たされず,孫文の奔走も効なく中止。(コトバンク、出典 株式会社平凡社/百科事典マイペディア)
【日英同盟の主唱者、Lord Charles Beresfordの来日】
明治32年1月、日英同盟の主唱者、サー・チャールズ・ベレスフォードが来日しました。
1月20日に、大倉喜八郎をホストとする招待宴が赤坂の大倉邸で開宴され、榎本も招待され、参加しました。他の来賓は、松方、西郷、桂、三井、渋沢、安田、浅野などなどでした。伊藤は母親が病気していたため、欠席でした。また、先約ありとして、青木外相、英国公使サトウらも欠席でした。(中外商業新聞)
翌日は、東京商工会議所と東邦協会が合同で歓迎会を開催し、渋沢が東京商工会議所を代表して挨拶をしました。https://www.shibusawa.or.jp/SH/kobunchrono/ch1899.html
【丸尾翁頌徳碑と「利国富民」】
・森山父子顕彰碑の題額
榎本農商務大臣の任期の明治27~30年の間は、熱心に日本の代表的輸出事業である生糸商品の品質管理体制を全国で整備した時期でした。桐生市史歴史年表(2019.6版)によると、明治29年8月に榎本は、全国に先駆け、非常な努力の下、羽二重の織布法を完成させ、しかも、全国へ惜しみなく技術伝授した森山芳平*¹がいる桐生を訪れました。桐生は、また、黒田清隆と関わりがあり、ハバロフスクで大陸のインテリジェンスの拠点を提供した竹内テルの出身地です。遡ること7年前、明治22年4月、森山父子の献身的な教育への感謝を示すために高力直寛*²が主唱し建立された石碑、「森山父子顕彰碑」の題額は榎本が篆書しました。
榎本は森山父子、桐生と縁があって篆書したのですが、どのような縁があったのか、具体的には判明しません。例えば、生糸、羽二重にさらに付加価値をつけるために染色技術が重要でしたが、日本では、なかなか染色技術が確立しない状況でした。森山は『独学で『舎密開宗』『化学訓蒙』などの化学書を学習し、77年には前橋の群馬県医学校で助教小山健三*³の「化学染色術」の講義を聴講した。・・・1885年の[森山の]日記では、森山は農商務省の許可をとり桐生に織物講習所を開設しようとしており、その講師を山岡[次郎]*⁴に依頼するために、たびたび山岡に書簡を送り東京の山岡宅を訪ねた。・・・』*⁵
森山は染色技術をも確立し、この技術も惜しみなく伝授しました。榎本は技術面での人的関わりや養蚕業の直輸出を望む産業関係者との関わりがあり、文部大臣でありながら、桐生を国内機織業の拠点、イノベーションの情報発信基地にした森山父子の偉業と徳をたたえる顕彰碑の篆額を依頼されたのでしょう。
*¹もりやま・よしへい、1854-1915 明治時代の機業家。
嘉永(かえい)7年1月23日生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)桐生(きりゅう)の人。染色改良のため前橋の医学校で化学をまなび,明治19年化学講習所の設置に尽力する。翌年ジャカード織機を導入。製品を内外の博覧会に出品して桐生織物の名声をたかめた。各地の羽二重(はぶたえ)創業にも助力。大正4年2月27日死去。62歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク。
*²こうりき・なおひろ、1865-1937。松山藩士の四男、森山芳平から羽二重の織布法の指導を受け、福井に伝えた後、東京高等工業学校で教授になり、その後、群馬や京都でも教育に携わった。
https://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/matsuyama_densyoukan.files/u7qu2l.pdf
*³こやま・けんぞう、1858-1923。明治-大正時代の官僚,実業家。
安政5年6月11日生まれ。高等商業(現一橋大)校長,文部次官などをへて,明治32年三十四銀行頭取。のち大阪銀行集会所,大阪手形交換所の委員長を歴任した。大正9年貴族院議員。大正12年12月19日死去。66歳。武蔵(むさし)忍(おし)(埼玉県)出身。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク。
*⁴やまおか・じろう、1850-1905。明治期の化学者。福井藩の出身。
蕃書調所で英語を教えたのち,明治4(1871)年アメリカに留学,化学を学ぶ。10年東大助教授,のち農商務省技師として,染色技術などの開発指導に当たり,また東京教育博物館が高等師範学校所管となったのちにその館長を務める。のち大蔵省税関鑑定官などを歴任する。
(村上陽一郎)出典 朝日日本歴史人物事典、コトバンク。
*⁵柳沢芙美子『山岡次郎研究ノート(1)―織物産地を繋いだ染色技術者―』福井県文書館研究紀要2、2005.3
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2004bulletin/images/2004fpakiyou-yanagisawa.pdf
参考資料:富山憲一氏提供
・森山芳平(2代目)『創業百五拾年誌』(私家製)
『地方への後進機業地への普及には、明治の顕官の要請があった様である。即ち現在で云ふ外貨獲得により、国利民福のために金子堅太郎・品川弥二郎・前田正名等により、次のような申し入れがあった様である。生糸で輸出することにより、織物整理加工し輸出すれば、国の利益は莫大である云ふ簡単のことである。即ち明治十八年、佐羽喜六と先代芳平との対談によれば、生糸壱箇参百圓であるが、織物にすれば、金七百六拾圓になり、差し引き四百六拾圓は、国内の諸職工の利益になるとのことであり、特に加賀・・・の旧藩[福井藩の間違いか?]に対する国利民福の為の要請が強かった様である。』
(下線は筆者挿入)
図3 榎本武揚篆額-森山父子顕彰碑
・丸尾翁頌徳碑の題額と撰文
『丸尾翁頌徳碑』が静岡浅間神社境内に、明治32年11月20日付で建立されました。文末に、『榎本武揚題額幷撰文』と書かれています。榎本が撰文までした石碑は珍しい。この頌徳碑の「丸尾翁」とは静岡の丸尾文六(1832-1896)*¹のことです。丸尾は、安政年間の干魃で村民が困窮したことを契機に報徳思想を学び、村の救済事業を行い、報徳社*²を結成しました。丸尾は明治維新を迎え、明治維新で職を失った大井川の川越人足らを牧ノ原台地へ入植させ、茶の栽培をして生計を立てるよう指導しました。製茶事業を興した次は、茶の直輸出を推進し、サンフランシスコに「富士商社」を設置し、製茶事業関連組合などでさらに事業拡大に貢献しながら、自由民権運動を押し進め、大隈重信の立憲改進党に属し、衆議院議員を務めました。丸尾翁は榎本らが考える「新日本人」に相当するため、国利民福に関する偉業と徳を榎本自ら執筆し、石碑に記録することにしました。
*¹明治期の茶業家,政治家。遠江国(静岡県)城東郡池新田村に生まれる。明治初年大井川渡船開設のため失業した東海道金谷宿,島田宿の川越人足の布引原(大井川下流西岸,牧ノ原)への入植計画を推進,輸出の増大によって発展した茶の栽植を指導し,自らも茶園を経営。また米国向け製茶直輸出会社の設立,運営にかかわった。17年以降静岡県茶業組合取締所総括,静岡県茶業組合連合会議長などを歴任。他方,政界では9年以降浜松県民会議長,静岡県会議員,県会議長を務め,25年から3回衆議院議員当選,立憲改進党に属した。(コトバンク、海野福寿)
*²二宮金次郎の報徳主義を実践する結社。
図4a 駿河国総社 静岡浅間神社楼門
図4b 「丸尾翁頌徳碑」の題額
図4c 榎本が題額と撰文をした「丸尾文翁頌徳碑」(右は撰文左端拡大図)
明治11年、榎本がサンクトペテルブルクからウラジヴォストークへ行く間、あちこちでお茶の需要を調べたり、帰国後サンプルを送る約束をして売り込みをしたりしながら帰国しました。榎本の念頭には、徳川家臣の失業対策の一つとして、牧ノ原台地での製茶事業がありました。
さて、榎本が撰文では、丸尾の偉業の数々を紹介し、最後に総括して、『益々将[まさ]に利国富民の図なり』と結びました。「利国富民」と「国利民福」とは同義なのか、いささかニュアンスが違うものなのかは判別できないくらい似ていますが、生計の手段を失った人々の為に立ち上がり、困難を乗り越え、事業を成功させ、拡大し、失業者の生活を安定させ、民権を獲得させていったことからすると、民福よりも富民のほうがこの碑を見る人々の思いにフィットするのでしょう。
<参考文献>静岡県茶業組合連合会議所編『静岡県茶業史』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について
出典 ・講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus
・『丸尾文六と牧之原開墾』★2015.3.7★講演記録、https://www.youtube.com/watch?v=MLxxFF92erI
補足−後漢時代(25-220)の隠棲儒学者、王符の『潜夫論』務本1に「富民論」がある。榎本がここで言う「富民」とは、王符(おう・ふ)の以下のような議論を元にしていると考えられるが、確証はない。
『・・・夫為國者以富民為本,以正學為基。・・・』
(中國哲學書電子化計劃 https://ctext.org/qian-fu-lun/wu-ben/zh)
Google機械翻訳
「・・・国に仕える者は民を豊かにし、正しい学問を基礎としなければなりません。・・・」
榎本が箱館戦争敗戦後に牢に入れられていた間に書いた『獄中詩』の中で「君恩」に振られたルビ「国為」は、王府の「富民論」が念頭にあったとすると、「為国」を和風に書いたと考えられます。
参考
榎本の撰文を以下のWEVBサイトで解読し、解説しています。
『「丸尾翁頌徳碑」を読み解く』、かさぶた日録
その1 https://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/9fcde0adafe431f6a8dd7ab08d1b6091
その2 https://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/4e9f6e32daab2635372671ada6edb5d7
その3 https://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/a635ad19739c16ed9589d9774c0617db
その4 https://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/49d71fb52672364ae36ec3d8b3060a8e
【殖民事業からの撤退】
明治23年に企画が始まったメキシコ殖民は、180日かけ調査と分析が行われ、「墨国太平洋沿岸諸州巡回復命書」にまとめられると、榎本は明治26年3月に日本殖民協会を創設しました。明治30年早々に日墨拓殖会社が創設され、資金難が予想されながらメキシコ官有地購入を急ぎ、総勢36名で結成された殖民団は、3月24日に横浜を出帆しました。
5月19日に殖民地に到着すると、現地の実情が想像を遙かに超え厳しい状況であったため、7月13日に7名が逃亡し、8月18日に在メキシコ日本公使館に保護を求めました。メキシコ側から榎本、安藤らに届く連絡内容に榎本は愕然としましたが、殖民地再建を目指し、安藤や根本正らと共に様々な手を打ちましたが、ますます困難な状況に落ち込みました。
榎本が払うべき地代をメキシコ公使が立て替え払いをする事態でした。安藤らと協議し、明治33年7月に藤野辰次郎*¹(当時、衆議院議員)へ無償で土地譲渡*²することで「殖民地処分」が決まり、榎本は殖民事業から完全に撤退することになりました。安藤が榎本を同志として支える業務もここで終わりました。榎本殖民地崩壊後、現地に残った六名は、現地で新たに企業し、たくましく生き抜き、藤野は榎本の志を受け継ぎ現地で事業を継続しました。
参考・引用 沼田哲『安藤太郎宛榎本書翰』青山史学14号、1995、pp.44-92
本論文は、明治18年1月10日の榎本から安藤へ宛てた書簡の中で、書き出しでは「パークス」と書くが、次からは「パー」と書き、箱館新政府との交渉で榎本のネゴシエーションスキルに怒りをぶちまけたパークスだが、この書簡では、パークスと榎本が親密に話しっていることが分かることと、榎本が集めた北京へ集まる甲申政変に関する情報から、朝鮮での清兵には責めるべきことが無いことが判明したが、本国の動向は榎本の判断と大きくずれ、朝鮮に関し、日清で協定を締結するために伊藤が談判をすることになった。明治22年8月7日付けの書簡では、榎本は、大隈を一大政治家と評した後、黒田を「ブレック」(=「ブラック」)と書き、ブラックと伊藤・井上は性質が合わないので条約改正作業が難航していることを伝えている。
榎本メキシコ殖民団の物語は何冊か出版されていますので、詳しくはそちらを参照してください。
*¹ふじのたつじろう、1858-。愛知郡日枝村。近江商人の藤野家は蝦夷地へ進出し、幅広く事業を展開し成功した。辰次郎は分家の「北新家」の当主になった。榎本の殖民協会に参加し、日墨拓殖株式会社へ出資した。榎本殖民地は榎本が藤野に譲渡したので、藤野殖民地となった。
出典 坂野鉄也、堀井靖枝『初代藤野辰次郎について 蝦夷地に渡った近江商人藤野家の近代』滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要、第52号, p. 49-72, 発行日 2019-03
*²三奥組合・日墨協働社の活動 https://www.mex-jpn-amigo.org/doc.id/47fa268b/
南洋群島では横尾東作らが活躍していました。榎本はその対岸にあたる、メキシコの地峡が大西洋と太平洋とを繋ぐ交通の要衝となり、さらに南米への物流の入り口となりうる重要な拠点になると考え、メキシコの太平洋側に日本とのシーレーンの受け口とするために貿易拠点を作ろうとしました。この企画のもう一つの特徴は、ハワイ諸島と北米大陸を避けた地域で事業と貿易を計画した点でした。しかし、殖民団の崩壊と所有地を手放したため、榎本の南方経営は破綻しました。
榎本は、1.安全保障、2.南方経営、3.技術立国の三つの政策を推進していました。安全保障策は、明治11年6月頃、サンクトペテルブルクでペルシャ王と面会して興亜を語り合うところから、興亜思想の元、日清韓の三国提携論を推進し、日清戦争に反対するも、日清戦争を進める勢力に適わず、駐露時代から用意してきた水雷学派による海戦で勝利に貢献しました。その結果、興亜思想は明治32,3年頃、国内での帝国主義の台頭により、消滅しました。南方経営に関しては、明治35年の時点では、南洋群島への殖民と貿易を残し、北ボルネオの租借権買取案は伊藤博文らに反対され、英国のオールコックに北ボルネオの支配権を持って行かれてしまい、メキシコの地峡の太平洋側への殖民事業などは撤退の憂き目に遭いました。
国利民福の増進と人口問題の解決を謳って登場した榎本の殖民政策−南方経営−が破綻した以上、榎本には第三の技術立国政策だけが残りました。
中編へ続く。
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